鏡像関係は、絶対的孤独な人間の寂しさと孤立感を癒す
人間は、誰かの支えと援助がない限り生きられない存在です。ここではそういった人間の依存的な存在様式にまず触れ、それを前提に、ダイエット依存症、買い物依存症、宗教依存症について書いています。
人間の依存的な存在様式
「依存」の「存」を使った文字に「存在」がありますが、存在ということは生きているか死んでいるかという、人間のいわゆる生死に関係します。
存在は二つから生まれます。一つは存在していることを意識できるという、これは認知されるということ、すなわち、存在がそこにあると認められるということです。
この認知は名前を呼ばれることでなされます。名前を呼ばれることが、この世にこの場所に自分が生きていることを証明し、保証してくれるのです。
名前が呼ばれないと、存在しないということです。例えば、学校で出席を取る際に自分の名前が呼ばれなかったらどう思うでしょうか? 名前は呼ばれないが、目で認知してもらっているということを認知できるでしょうか?
視覚と聴覚の二つが重なって私は存在しうるという、これが意識と認知、即ち名前を呼ばれるという行為です。ということは絶対に他者が必要とされます。
もう一つ存在の形式があります。それは存在している意味です。私は何のために生きているのか。私が生きている意味を自分で定められないから、宗教、哲学、倫理が存在の意味を作ってくれます。宗教は世のため、人のため、社会のために生きなさいと教えてくれます。自分で意味を定義できない人は、既製品の定義を使うしかないのです。
しかし、全ての人に宗教心や倫理観があるわけではありません。その人はこの意味を他者から作ります。宗教や神に頼らないで、他者の必要性、もしくは必然性という形を使って意味を作ります。
こうして認知という知覚作用による存在という物理的視覚的存在+意味の二つが相まって、初めて人間は生きるという意味を作れます。これが人間の生きている様式です。これは全て自分以外の他者を前提としています。
人間の存在様式は「寄る辺なき存在」です。寄る辺なき存在とは、誰かの支えと援助がない限り生きられない存在です。既にその時点において存在様式は依存的なのです。
動物の多くは1年以内に巣立ちをして親から離れて自活します。ところが、人間の依存期間は18年あります。この間ずっと依存しています。頼らなければ生きていけない存在という意味で依存です。自分の生存を維持するためには、家族及び親に頼らざるを得ません。その中ですっかり頼り切ることを学んでしまっています。
寄る辺なき存在ですから、頼れなくなると死を意味してしまいます。ここが最大の人間の弱点でもあります。
ですから心理学は「自律」という言葉を使います。一般的には「自立」という「立」という文字を使いますが、心理学ではコントロールという「律」を使います。依存しようというこの心理を、自分でコントロールしなさいという意味が自律という意味です。
ダイエット依存症
ダイエットの依存対象は、アルコールや薬物といった“物”ではありません。意味が対象です。
視覚的に見えているのが定義ならば、自分が痩せたいと思ったら、他者から「痩せたね」と言われて満足して終わりです。しかし、ダイエットは他者の眼ではありません。自分が自分に抱くセルフイメージの体型に一致しない限り、ダイエットになりません。
拒食症の人も痩せたということを絶対に認めません。どんなに痩せても自分が痩せているイメージには一致しないような構造になっています。ですから他者の見解は全く考慮されないのです。
ダイエット依存も自分が描くそのラインが自分で認識できるまで、他者が何と言おうと、自分のイメージに一致しない限りは続けます。
もう一つは、ダイエット依存症はそのラインを外れた時、自分の生存の意味がなくなる構造です。生存している意味を失うのです。見栄えがよくなったらいいというのがダイエット依存症ではありません。痩せてなければ生きている意味がないという、この意味に結びつけられたあり方が依存症なのです。
ダイエットは自分の体をテーマにした依存、そうすることが私の生きている意味だというところがこの依存症です。
買い物依存症
買い物依存は、買うという行為自身が、寄る辺なき存在と頼りない存在の意味を作ってくれます。買うという行為自身が存在意味をもたらす構造です。
必要な物を必要な個数だけ買う、これを実用的といいます。ところが必要以上に買う。最低でも予備を考えて2個買えば間に合うのに、三つ四つ同じものを買う。いわゆる同じ物を3個以上買うと、買い物依存の気があると言わざるを得ません。そこにはその人なりの意味があります。三つなら三つ買う意味があります。使わないのにも意味があります。
そもそもの人間の始まりは寄る辺なき存在です。ということは、常に何を欲望、欲求するかというと、「そばに居て欲しい」ということです。買い物依存の人が共通して持っている文章は「そばに居て」です。そばというのは45cm以内です。それ以上を気配と言います。寄る辺なき存在が一番不安なのは一人ぼっちです。自分以外の誰かの気配があったり、それが45cm以内にあれば、そばに誰か居るになります。
寄る辺なき存在がそばに居て欲しいものに求める条件は、決して私のそばを離れないことです。洋服や靴やバッグは自分から離れていきません。だから物を買うのです。物は勝手に歩いて逃げないからです。
寄る辺なき存在の依存というところから考えていけば、全ては理解できます。
宗教依存症
カルト集団の構造はピラミッド構造です。底辺に会員が居て、頂点の教祖に全部一心に集まっていく構造です。これがあらゆる宗教が持っている、神という絶対者に対して帰依するという構造です。
一方的に絶対神において我々は守られているという、この守られているという部分の言語が一番意味を持ってきます。なぜなら、寄る辺なき存在は不安にして不安定だからです。これを安定させるため、定めるために絶対の楔が必要です。その楔の機能を神がしてくれます。なぜならば神は絶対だからです。
絶対というのが一つ必要です。ですから曖昧な存在であってはなりません。また、時代によって変わるような相対性も困ります。いつの世でも、いつの時代においても、どんな政治体制のもとでも変わらないという保証がなければなりません。
存在の意味が否定されることが不安を作ります。人間の生存を危うくするのは否定です。否定が安定を脅かして不安定にして人を不安にさせます。どうなるか判らないという、運命が定まらない状態を指します。
ゆえに我々は不動の心を手に入れて安定しようとしてきました。実はそれだけ不安定だったということです。それは常に否定の状況に身を晒し脅かされているからこそ生まれたのです。安心、安定のためにカルト、神が必要だったのです。
一つのもとに依存し切ってしまう、帰依させてしまう構造は、宗教という形式が一番強く持っています。ですから宗教に走る人が非常に多いのです。頼れるものがないと、依存という形では一番吸い上げやすく、覚せい剤と同じぐらい強いので、宗教はアヘンだと言われるのです。
そういう新興宗教集団に入っている人を社会は非常に危険視、嫌悪します。それはその熱狂性というものと、そして絶対神に帰依するというこの一方的な思いという幻想が、一般の人には理解できないからです。依存の一方性が気持ち悪いということを言っているのです。
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