愛情のケチ
正月が明けてようやく日常を取り戻して、最近見ているユーチューブがあります。
菊谷隆太さんという方で、仏教の事を分かりやすく説いている動画です。
私は高校がカトリックの学校だったせいで敬虔なクリスチャンではないですが、どちらかというと聖書が文字通りのバイブルな学生生活を送りました。
しかし、お正月は初詣に行って手を合わせますし、悩みが出来ると今は亡き瀬戸内寂聴さんの法話を聞きに行った事もあり、大人になると仏教の教えも理解できるようになりました。
と、言う事で、前置きが長くなりましたが、今日のタイトルについてお話していきます(菊谷隆太さんの動画の抜粋ですが)
さて、私へ相談を寄せて下さる方は、夫の浮気に悩む妻が殆どです。
その相談者が、悩みを私に話されたりメールで書かれてくる時、夫への呼び名を「主人」という方が6割。
その他は「旦那」と表現する方も少なくありません。
ただ私はこの旦那という呼び方に少しくだけているイメージを感じていて、もしかしたら相談者が私に親近感を持って下さるから気を遣わずに、くだけて下さっている方と、中には、ちょっと、やんちゃな女性なのかな、と勝手に思っています。
しかし、旦那とは仏教用語でいうと、意味が違うのです。
「与える者」という意味が仏教用語では「旦那」と言います。
私はこれまで、そんな意味とは知らず、旦那と言う言葉の響きに、少し隠微な匂いを感じていました。
京都の言葉で旦那さんというと、花街で言う御贔屓にして下さっているお客様に囲われる芸子さんが言う表現です。
つまり、昔でいうと囲われる身の芸子さんは、二号さんやお妾さんと言い、愛人を囲う男性を旦那様と呼ぶので、
与える者という意味は、外れてもいませんね。
そして、その与える者の対極にいるのが、与えられる者という意味で「餓鬼」と言います。
要は仏教の世界では、与える者と与えられる者の2極があるというのです。
それは人間界でも、同じことが言えるようで、人は大きく分けて、与える側の者と与えられる側の者と2種類が存在するというので、あながち当たらずとも遠からずと言う感じでしょうか?
よく冗談で言う事に、人間は迷惑を掛ける側と掛けられる側の2種類というような事を言って笑ったりしていましたが、仏教の教えから来ている例えかもしれませんね。
確かに家庭は仕事をして、生活費を家に入れる「与える者」とその生活費を頂く方の「与えられる者」と言う構図ですが、これは単にサラリーを家計に入れるという事ではないようです。
特に最近は共働きの家庭も多く、生活費も夫と妻の二本柱で成り立っている夫婦も少なくありません。
しかし、仏教的には、与える者というのはお金の事だけではないようです。
ここから先は、もう少し深い話になるので、興味のある方は、菊谷さんの動画で研究してみて下さい。
でも、今日、私が話したい事は「餓鬼」の事です。
この餓鬼とは、現代風な解釈で言うと、腹を空かせ、何でも欲しがり、むさぼるような者という事で、そこには行儀も礼儀もなく
自分勝手とか、自分の事しか考えてない者という事になります。
これは、ただ単にお腹を空かせているから、恥も外聞もないという事ではなく、自分の空腹ばかりしか気持ちが行かないと、与えて貰う得にしか関心が行かず、こういう者は、人から与えて貰う事が当然と考える癖があるので、いくら与えてもらっても、感謝の気持ちが無い為
「もっと、もっと」と貪る事しかできないのです。
だからいくら与えて貰っても満足しない。むしろ与えてくれる人の親切心や愛情が少ないのではないか、と人を恨むようになるのです。
だから、餓鬼と言う言葉の意味は、腹を空かせた者というのではなく、人と分かち合えない者という意味なのです。
よく登山していて、遭難して、貴重なチョコレートを皆で分かち合って食べたという話は聞きます。
そんな時に、自分のリュックに食べ物を隠し持っていて、自分だけ、皆が寝静まった時に、こそっと食べたという話も聞きますが
まさしくこれですね、「自分さえ善ければ人はどうでもいい」と言う人は、いくら与えられても足りないと感じです。
だから、餓鬼の意味は、人の親切を、親切と感じられない心の事です。
あまりにも、与えて貰う事が当たり前になってしまうと、与えて貰っていると感じずに、貪欲しか残らなくなるのです。
そういう生き物の事を餓鬼というのだそうです。
この餓鬼と言う言葉に近い言葉で「飢餓」と言う言葉がりますが、世界中で、飢えに苦しんでいる国があります。
こういう国の人たちは、文字通り飢えている訳ですが、親子で、少ない芋を分け合って暮らしています。
だから、飢えている人だって心が豊かな人はいます。
しかし、満たされている自分の環境や旦那に感謝の気持ちが無くなると餓鬼になってしまいます。
今日、書きたかった事は、夫という旦那さんが与えてくれている事に鈍感になってしまいます。
そして与えて貰っている事が当たり前になり、いくら沢山満たされた事があっても、足りないとしか感じなくなっています。
そうして夫婦の場合は、足りなかったら、旦那に対して攻撃的な感情が生まれてきてしまいます。
でも、ここで言葉の根源を思い出して下さい。
旦那とは与えてくれる存在なのです。
しかし、私の所に寄せられる相談は、夫に対する妻の悩みです。
だから基本は、夫が浮気をしたりして妻を苦しめている人が多いので、そんな夫に感謝の気持ちが湧かないのは理解できます。
酷い浮気で、何年も妻を苦しめ続けるひどいご主人がいる事も事実です。
でも、中には、妻の場合でも、自分が与えて貰っている物への大きさに気付かず、相手を攻撃する事ばかりに気持ちがいく人もいます。
本当に夫の浮気は、そこまで酷いものですか?
貴女の与えて貰っている愛情を全部打ち消すくらい酷いものですか?
物には程度もんという事がある、と私は常々書いています。
夫の浮気は許しがたい事はよく分かります。
でも、全てを帳消しにするくらい酷いものか、どうかも考えてみて欲しいのです。
だからと言って浮気を許してあげなさいと言っているのではありません。
しかし、ご主人だって貴女から、何も与えて貰っていないという満たされない物の裏返しが浮気という形だったとしたら
貴女の夫も、貴女と同様、満たされない人なのです。
貴女も辛いかもしれない。
でも貴女のご主人も辛かったのかもしれません。
そういう気持ちの共感性とかって必要と思いませんか?
自分だけが苦しいと思うと、人の気持ちには鈍感になります。
貴女が一杯夫から苦しめられたと思っているのかもしれません。
でも、貴女の吐いた言葉って、夫を苦しめた事ってありませんか?
今一度、立ち止まって、与えて貰っている物を数えてみるのも必要です。
昔のフォークバンドのバンバンが歌う「サチコ」と言う歌があります。
♪幸せを数えたら片手にさえ余る~ ♬不幸せ数えたら、両手でも足りない~♪という歌詞です。
貴女が幸せになりたいなら、貴女も夫を幸せにしてあげないと・・・・・
それが共感性です。
では、今日はここまで。