愛情のケチ
今日は自分という尊厳についてお話します。
3月からこの6月半ばまで、テレビのニュースや、新聞紙面も、コロナ渦一色でした。
それが少し、自粛規制が解かれた途端、残忍な事件や、不倫のスキャンダルが吹き荒れました。
人間が起こす事件と言うのは 何があっても起きるだろうし、人と人は、どんな世の中で愛し合うし、憎み合います。
それがコロナの間は、表面化しなかっただけなのか、本当にコロナの間、人は憎しみなどの感情も抑えられたのなら、
人は接触さえしなければ、憎しみも減少するのか、と新たな説に感心しています。
という事で、やはり 私の仕事は夫婦問題なので、またもや、戻ってきた不倫スキャンダルに蘊蓄を書いていきますね。
思い起こせば、コロナになる前(何故かコロナを境に考えるのも変ですが)俳優の東出さんが新人女優の唐田エリカさんと、3年に渡る不倫をしていました。
それが相当バッシングされ、奥様と離婚になるのかどうか、と騒がれた後、コロナの騒ぎが起き、世間はそれどころじゃなくなりました。
そして、コロナ明けに、アンジャッシュの渡部さんの複数に女性との、不倫事件が発覚しましたが 私に言わせれば不倫というカテゴリーにさえ、入らない。
そこには相手した女性も、渡部さんも人間の心を持っていない、もうアニマルとしか言いようがない。
昔の時代劇風に言うと、「てめぇら、人間じゃねえや、叩っ切ってやる」・・・です。(古いなぁ~)
で、話をもとに戻しますが これらのスキャンダルもそうなのですが、私がいつも思うのは これらの人生、何を心の支えに生きていくのかな、と思うのです。
変な例えですが、身内が亡くなった時、本当は悲しいはずなのに、お通夜や告別式。そしてお世話になった方々へのご挨拶等、ある種興奮した中で、儀式は進んでいきます。
誤解を覚悟で言いますと、イベントなのです。だから、そのイベントが終わった後、落ち着いた後に本当の寂しさが押し寄せるように、こうしたスキャンダルも同じです。
もし、貴女の夫の不倫問題が明るみに出て、貴女たち夫婦が、その問題に向き合います。
それはもう、時間の観念がなくなるくらい、後になると、あの時何をしてたんだろうと思うくらい、当時の事を思い出せません。
つまり、起きている事は事件なのです。あるいは事故なのです。
事件は人が起こしたことであり、刑事事件的に言うと、事件は、事件なのです。
要は、事件は様々な条件が重なり、起きてしまった事だと考えると、悪い事なら、罪を償えばいいのです。
でも、大切な事は、それを人という人間が起こした事件だとすると、聖書によると
「罪を憎んで人を憎まず」です。
人は色んな環境、色んな誘惑、また、意志の弱さなどで、色んな事件を起こしても仕方がないと考えます。
だから、浮気をした夫の事も、事件と言うか、事故と言うか、人生のアクシデントとして考えるしかないのです。
でも 大事な事は人間の心です。
私も若い頃、元夫の出来心を、魔がさしたとか、ストレスで、誘惑に負けた弱い人間だとかいう理由で、許してあげました。
でも、それが度重なると、事故とは言えない訳なのです。
私も最初は、元夫のしでかした事は、元夫の悩みに気づいてやれなかった私の責任とも思い、自分を責めていました。
元夫が過ちを犯すのは、半分は私の責任でもあるのだと。
だから、元夫のしでかしたことの罪は半分は私も悪かったと考えました。だから、どうしても憎む気も湧かなかったし、
何なら、一緒に罪を背負っていこうとさえ思って苦労する覚悟でいました。
でも、度重なる不祥事を見て、単なる、事件や事故として処理できなくなったのです。
つまり、そういう事をしでかす人間は そういう人間なのだ、と気づいた瞬間、別の意味で、私は自分を責めました。
私の選んだ人間が、こんな人だっただなんて・・・というのが一番のショックでした。
そして、今後、人生を歩んでいく中で、私自身、何も見えてなかった同じ目で、どれだけ人生の大切な見極めができるのか、と、急に自信が無くなり不安になったのを覚えています。
色んな交通事故を起こしても、それは,霧がモヤっていて、視界が悪く、事故を起こしたんだね、とその時の環境を言い訳にすることは出来ます。
こちらが前方信号をきちんと見ていても、横から、信号を見てない車に当たられるという出会い頭の事故だってあるので、最初は、事故は事故として考えていました。
元夫の不倫も、相手をするという変な女もいる訳で、色んな人がいるよな、ってくらいの事故扱いで考えていましたが、
本当に人生をきちんと受け止めている人は、そう何度も事故は起こしません。
交通事故だって、何度でも起こす人は、やはりそれだけ、注意力散漫であったり、逆にいうと、当の本人が乱暴運転だから、事故は起きると考えると、やはり事故を起こしやすい人間なのです。
人生の事故だって同じです。
「先生、男性でも、絶対に浮気をしない人はいますか」と問われます。
確かに、一生浮気をしない人はいますよ。
それはそれで真面目だろうし、それがその人にとれば、普通なのでしょう。
でも、やはり、浮気をする人は多いので、しない人は珍種かもしれませんね。
という事で、話をもとに戻すと、浮気をよくする人は、そういう人なのです。
交通事故とこれを横並びで考えるのは無理がありますが、これも、やはり人生で一度も交通事故を起こしたことがない人がいるように、注意深く運転をしている人はいるのです。
浮気という事故を考えた時、運転上手な人は、実際浮気はしても、遊びの範疇に収め、妻にはばれないように始め、ばれないように終わらせます。つまり事故っても、かすり傷程度で終わる人がいる限り、きっと、注意次第で、大事故は防げるという事です。
そういう意味で、物には程度と言うのがあるのだと思います。
人間は多少は間違いを起こす生き物だと。
そして、人生は何もなく順風満帆な事ばかりじゃない。
多少は脱線もあるとしたら、それはハンドルの遊びと同じで、許される範囲があり、その枠の中で
遊びも失敗もあるのかもしれないなら、大きく脱線する人は、やはりそれなりの不注意や、怠慢な部分があるのだと思います。
そんな風に考えていると「人間は間違いを起こす生き物だ」という事は、この言葉を枕詞のように、前において考えなければならない。
それはいつも言う「程度もん」です。
同じ間違いばかりを繰り返す人は 「程度」を超えています。
交通事故ばかりを起こす人は、注意力の程度が低いという事が言えます。
そんなこんなを考えていると、どうしても私は事故を起こす背景を不運と思っても、やはり、不運を呼ぶ条件というのはあるので、その条件を作るのは、半分は環境であり、半分は人間なのです。
何なら 環境の悪条件を人間力で、減少させることも出来るのが人間なのです。
そうなると、事故を起こした人間という事を考えずにはいられないのです。
事故を起こした事は、仕方がないとしても、それを起こしてしまう人間性というものに、私はやはり失望を覚えるのです。
実際、若い頃、私も色んな元夫の事件にうんざりしていました。
あれほど、飲酒運転をしないで、と言っていたのに、世の中を舐めているのか、飲酒運転を繰り返していました。
時代的にもそれをする人は多かったのですが、元夫は、凄いお酒を飲むので、事故の可能性も高くなるわけです。
自分が事故をするには仕方がないにしろ、人を殺める事になる事故を起こすという事を舐めているようでした。
そんな中、元夫は事故を起こしました。
警察から電話が掛かってきて事故の事を伝えられました。
当時、息子もまだ保育園に通っていたころですから、転んだりの擦り傷は絶えません。
私は血を見るのがとても苦手で、息子がこけて膝を擦りむいただけでも、キャーキャー言ってました。
元夫も 私の「血、嫌い」は承知していて、警察から解放されて帰宅した時、家には入らずに、玄関ドアの向こうで
「服とか血だらけだから、驚くなよ」前もって教えてくれたのですが 私はドアを開けて、血だけのカッターシャツをまとった元夫を、平気で迎え入れる事が出来ました。
もちろん、キャーキャー言う事もなく、です。
息子の服なら、漂白し、綺麗に洗濯しただろうに、元夫のネクタイも、カッターシャツも捨てました。
私があれほど飲酒運転をしないでと頼んでいたのに、世の中を舐めていると思いました。
息子の怪我には、その痛みが私に伝わり、私まで泣きたくなりましたが、元夫が血だけで、私の前に立った時は
何も心が動かなかったのです。
遊んで、遊んで、お酒ばかりを飲んで・・・・もちろん、働いてはいたけれど、家にお金は殆ど入れず、自分の飲み代に消えていた元夫。私も頑張って仕事をしていましたが、女一人の収入では何ともならない。
そんな時、元夫が血だらけになって、私も前に現れても、もう私の心は動きませんでした。
そんな時、そういう元夫と、人生をこれからも共にしていくのか?
そりゃ息子たちに父親という籍は残しておいてやりたいし、名前は変えたら息子たちは嫌がるだろうという葛藤がありました。何とか離婚はせずに子供達を育てたい…その為に、この元夫にこれからも仕えていけるか?
何と言っても、私にはきちんとした仕事も収入もない中で、私はやはり、この元夫と人生を生きていかないといけないのかと考えていましたが、何と言っても 私は自分に自信がありませんでした。自分をとても低い人間だと思っていました。
現に、お金の事で元夫と喧嘩になっても、元夫は 私を下に見ました。
日本の給料制度は、やはり男性の方が高いので、逆にそれが元夫の自信になり、私を下げずんでいました。
でも食べて行くためには、元夫に馬鹿にされても、歯を食いしばって頑張らないと・・・・・
でももう心が悲鳴を上げていました。
その時に、心に浮かんだ言葉・・・・
それは 「私ともあろうものが、こんな男に馬鹿にされる人生を歩んではいけない」と思ったのです。
その自信は何の根拠もありません。
「でもこれだけ苦労を掛けていて、まだ、それでも目が覚めない元夫に仕えるほど、私は値打ちのない人間ではない」
と、思ったのです。
私ともあろうものが、こんなに一生懸命生きている私が、こんな男に見下されるほど、値打ちのない人間じゃないと思いました。
何の根拠もない自信です。
でも、私は自分の尊厳にやっと気づいた瞬間でした。
私の人生は、浮気だ、酒だ、ということしか興味のない人間の下流に居る必要はない
と、初めて自分の苦労を自分で労わってあげました。
私ともあろうものが、ここに留まっていてはいけない。
何も離婚がベストとは思いませんが、私のところに相談を寄せて下さる方々はみんな、努力をされています。
ご主人に浮気をされ、それで自分を見失い、自信を失っている世の妻さん。
自信を持てとはいいません。
でも立ち止まって考えて下さい。
貴女ほどの真面目に生きている人間が、浮気でうつつを抜かしているご主人に、遠慮をして生きていくことはありません
貴方ほどの人間が、ご主人に振り回される人生を、余儀なくされるのは、理不尽だと気付いて下さい。
私が初めて目が覚めたのは「私ともあろうものが、こんな元夫の下で我慢する必要はない」と気づいた途端、目の前の霧が晴れました。
皆さんも、自分の尊厳を持ちなおし、自分をほめてあげて下さい。では今日はここまで。