夫の本音を知るには
暦は松の内ですが、何か最近は正月気分が、すっと消えてしまいます。
いつから正月が楽しくなくなったのかと考えたら、恐らくお年玉をもらえなくなってからかな~と思ったりしてます。
つまり冬休みとか、お年玉を貰うとか、子供として生きていた時までのお正月が楽しかったように思えます。
でも、お正月はお正月として依然とあるのです。
多少、昔と比べたら、晴れ着を着ている人が少なかったり、殆どの百貨店が開いていたりすることはあっても、幼い子供たちにはお正月はあるのに、大人になった私の気持ちだけが変わってしまったと感じます。
そんな風に考えていると結婚生活というのも、似たような物を感じます。
結婚をする前は、あまり会えない夫との結婚を夢見て、それが叶うと、段々もっと、もっと、と別の・・・上のものを望みだすようになりました。
慣れが手伝い、今ある幸せが当たり前になり、「無い物」ばかりを数え出す暮らし。
若かった交際中は、ただ何とか会える時間を工夫する事だけが幸せでしたが、結婚をしていつも一緒に居られるとなると、その居てる時の充足感を満たそうとばかり考えてしまう。
今、私は色々な相談者と向き合い、変な話、うらやましく思うこともあります。
その人にとれば大変な問題なんだろうけれど、80%の幸せに気づかず、足りない20%を数えている。
これって、その人に取れば、20%が、悲しみとしての100%なのだから、幸せを感じましょうと言っても、その人にすれば、20%が苦痛なのです。
身体の事になぞらえて考えてみると、健康なときは、何も感じないものです。
でも、指の先を少し切っただけで、もうそこに神経がいっちゃって、その痛さばかりが苦痛になる。
以前、私は椎間板ヘルニアというのを患いました。
1ヶ月、ほぼ仕事を休み、寝たきりのような生活をしました。少し歩けるようになって、初めて、「杖屋さん」の存在を知りました。
京都では、まるで昔の竿竹売りのような、車で杖を移動販売している軽トラックの存在を知りました。
困っているからこそ、目に入りましたが、患う前なら、その車どころか、杖をお年寄り以外の、求めている人がいる事も知らずに生活していました。
その後、足の指も骨折したりして、私の身体は故障だらけでした。
それまでは出産以外では入院もしたことのない健康な私が、初めて骨折の痛さを分りましたが、
それまでの私は松葉杖をついている人を見ても、痛みまでは共有できませんでした。
それからと言うものは、街中で車椅子を使っている人の通行の邪魔にならないように、駅のホームでは目の不自由な人が白い杖で歩いている危険さに、改めて心から心配をしました。
そして何よりも、骨折の痛みが、本当に実感として分りました。
ある夏の日、ある相談者が、当方にやってきました。
ご主人は、ある会社の経営者で業績は良く成功されている奥様からのご相談でした。
夫の不倫を止めさせたいという例の如くの相談ですが、裕福で何不自由ない暮らしの中で
夫の不倫だけが、心の痛手になっているという。
夫は成功し、地位も名誉も手に入れたのに、気が付けば夫の心は他の女性に。
そこで、私に顔を近づけて、小声で内緒話をするように尋ねられました。
「こんな不幸な人間って他に居ますか?」と。
その人にすれば、とても恥ずかしい事のようで、苦しんだ結果、色んな友人知人に相談したが、
周りの人が皆幸せそうに見えて、とても孤独感を高めています。
私がこの相談業の中で、自分なりに弾き出した統計があって、特に根拠を持って説明は出来ないのですが、「村越調べ」という事をお話させて下さい。
男性で、かなり成功を収め、金銭的に裕福になっていく人は、その事業を成功させるにあたり
心を失っていくことがあります。
合理的に、要らないものを削り、時には心を鬼にして、成功を収めた人は、自分でも荒ぶる心を、何かで誤魔化さないと収まりが付かないのです。
ですので、事業を成功させる人は、どこかしらマイホームパパの部分を自分で切り捨て、わざとハングリー精神で根無し草のような、刹那的なことをして帳尻合わせをしているというか。
もちろん、会社も順風満帆で、家庭でも円満でという丸い生き方を出来る男性もいます。
しかし、大部分の成功者は、結果や数字を追い求める事業の中で、甘い部分は切り捨てる修羅の部分で突っ走ってきているので、そういう暴れ馬を操縦するのは、当たり前の妻では物足りないのだと思います。
英雄、色を好むといいますが、のし上がったり、蹴落としたりの競争社会で生きている夫にとれば時には「まったりした暮らし」がまぶしくなることもあります。
「夫は変わってしまった」と嘆く妻もいますが事業を成功させるために、生き馬の目を抜く勢いで、変わらざるを得なかったと言う事もあります。
確かに事業は成功させてかもしれませんがそれを成長したというか、どうかは分りません。
でも成功者は孤独なのだと思います。そんな時に、「暖かい家庭」が帰る場所と夫も思えたらいいのですが、そのまったり感を持つ妻が、時には夫が足並みを合わせてないと感じる事もあるのです。
これは経営者に限らず、夫の寂しさも理解が必要なのではないかな?と感じるのです。
そこで先ほどの妻の話に戻りますが、「何不自由ない暮らしをさせて貰って、後、足りないものは夫の心だけです」と言われ、足りない20%が全てというか100%になっているそうなのです。
そこで今、何が一番辛いですか?と聞くと、「秋の連休に娘と行くヨーロッパ旅行に心が弾まない」と言われ、それまでに浮気相手から夫を取り戻したいと言われましたが、取り戻しても夫は一緒に旅行に連れて行かないというのです。
え?浮気相手と別れさせた後、ご主人は日本に放置?
貧すりゃ鈍すと言いますが、逆に幸せすぎると、鈍感になる事もあるなぁ~とつくづく思います。
手に入れたものを抱えながら、もっともっとと望めば、手から掴んだものは零れ落ちます。
手に入れた物が多すぎたら、「無い事」が不安になりますが、足りないのではなく、手に入らないものは
今、あるものとの組み合わせなのです。
つまり、事業に成功し、その結果、裕福な暮らしをもたらしてくれたご主人は「心」を失うくらい忙殺された人なのです。
そのご主人に、「あと少し暖かい心だけが在ったらなぁ~」と望んでも、む持ち合わせてないこともあります。
では、どうしたらいいのか?
諦めろというのは簡単です。
でも、手に入るものと手に入らないものの種類を、考えてみたら、少しは気も休まります。
私も孫も、二歳の時、どんぐり拾いで手にいっぱいどんぐりを持ち、もっともっとと次のを拾った途端
これまで拾ったどんぐりは手から零れ落ちました。
幸せって、そんなどんぐりに似ている気がします。
物を持てば持つほど、欲は膨れ上がります。
地位と名誉を持ち、成功を収めた人は、孤独になります。
多分、ご主人も孤独なのだと思います。
そして、そのご主人と共に生きる妻も孤独なのです。
孤独対孤独。
人生を一緒に歩きたいと思っていながら、夫婦、二人が孤独なのです。
話は前後しますが、私がヘルニアになったとき、これまで気づかなかった「腰を痛めた人」の
コラムに沢山出会いました。
街中で、足を労わりながら、ゆっくり歩く人へ、私の心が向かいました。
腰痛持ちは私一人じゃない。
そんな共感性が、私を孤立から救いました。
他の女性へ心を移す夫も、善悪は別として、孤独なのだと思います。
自分の足りないものを数えるより、裕福にしてくれた夫の孤独を理解すれば
少しは寄り添える気持ちになれるのではないでしょうか?
では、今日はここまで。