愛情のケチ
過ぎてみて分ることってあります、その時は分らなくても・・・・。
私もこの年になって(ってか、年齢はあまり公表してないけど)分ることって多いなって思います。
よく母が生前、言っていた言葉で「あんたも、お母ちゃんくらいの年になったら分るよ」って。
「子供持ったら分るよ」とも言ってたなぁ~。
だから、思うのです。
不倫はよくないかもしれないけど、不倫をしてみたら、分るのかなって。
その昔、私はある男性を応援していました。
ある男性は奥様もいて、別に不倫じゃなかったけれど、社会的な活動の中で、その男性は私の師匠のような存在でした。
でもその男性のプライベートは寂しいものだったらしく、その活動的な姿と、プライベートな寂しい顔は一致しないものでした。
とても情熱的で正義感に溢れたその男性の活動を私は応援する中で、何故、その人の奥様は、自分の夫を支えないのだろうと、ある種、不思議に思っていましたし、何ならその人の活動を支えない奥様のことを憎んでさえいました。
今にして思えば、それが恋だったかもしれないし、その男性は私の気を引くために、奥様のことを悪く言って、「寂しい自分」を演出していたのだろうと思います。
そんな若い頃の私はその男性の言う言葉を鵜呑みにしていたし、特に歯の浮くようなことを言わなかったので、その言葉は私に向いているとは思わず、大ごとにはならなかったのですが、後から聞くと、同じようなことを沢山の女性に言っていたらしい。
つまり女たらしというタイプです。
でも、その男性の口から出る言葉が、始めて聞く言葉で、何の先入観もなく耳に入ると、それが真実としてしか、聞こえない訳です。
疑う必要もなくストレートに入ってきて、そのままで受け取っていたのですが、今、この年になると分ります、「あれは嘘やったな」と。
つまり 今のこの年になると、本当の事と、嘘の事と、両方を知っているわけですから、本当か嘘かの枠に押し込めたら、だいたい、どっちかわかる訳です。
そういう意味で、今、こんな仕事をしていると、まずは疑ってみるという事をします。
要は病気と同じで、どこが悪いか分らないけれど、とりあえず、すべての可能性を捨てず、全部疑って検査をする。
そんな中で、疑うべき点を消せたら、その疑いはないということ。
そして何度検査をしても、疑いが消せない点があるなら、その精密検査をして、はっきりさせるという事をする。病院の先生でもすべての病気が分るのではなく、経験があるから、「恐らく、そうだろうな」と言うことに的を絞り、そこを深く疑って見る。
そこから その疑いを晴らすのか、やはり疑いは的中するのか、そういう風に考えるのが病気の巣を見つけることになるのです。
つまり、まずは体調が悪いと思った時は、まずはすべての疑いを、疑って見る。
そして、その疑いを晴らしていくという作業の中で、どうしても疑いが晴れないもの・・・そこが病巣という訳です。
まずは、トランプを思い浮かべて下さい。
そして神経衰弱のトランプゲームができるように、机の上にすべてのカードを裏向けて並べて下さい。
そこで 一枚表に返し、また別の一枚を表返し、偶然同じのが出たら、それでペア成立。
浮気問題もそれに似ていて、おかしいと思ったらまずは疑いのカードを裏向けて並べて下さい。
浮気問題は、何も分らなくされているからトランプの裏向けと同じなのです。
そこで 一つのカードを表に向け、それとペアになるカードを揃えていく。
それが上手く行くと、やればやるほど、カードは少なくなり、ペアになるカードの確率が高まります。
最初のうちは、どのカードがペアになるかは分りませんが、段々カードが少なくなると合う確率が高くなるというのは、腕が上がるというのではなく、段々「それだろう」という予想が出来るようになるからです。
浮気問題は、まず疑って見ることから事実が解明します。
でも不思議なもので 私のところに来る相談者で、中には、夫への浮気の猜疑心でいっぱいなのに、その疑いを否定して欲しいと言って、来られます。
疑わしいと思えば思うほど、この村越に「浮気じゃないよ」と否定されに来られるのです。
無茶を言ってはいけません。
やってる者はやってる(浮気を)のです。
やってるのに、やってないと思いたいから、気が変になるのです。
ましてや、何でも一番疑って掛かるこの村越のところに来ていながら、「疑わない方法を知りたい」なんて、誰に聞いているの?って感じです。怒ってるんじゃないよ(笑)。
って、いうか、私の所に来ている段階で、夫の浮気を何とかしてほしいのでしょ?それなのに、浮気がなかったことにして欲しいと願うのは分るけど、せっかくお金を払って、私に相談をしているのに、そんな「無かったことにするように思い込ませて欲しい」なんて、そんな事は催眠術師しか出来ません。
答えあわせをしようと私のところに来て、私が「浮気の可能性がある」と言ったら、必死でその可能性を打ち消す人がいます。
当カウンセリングルームに入るドアの前までは 夫への不信感でいっぱいだったはずなのだけれど、その予感の答えあわせをして、根拠を持って、それを示した途端、夫はそんな事をする人じゃないと、必死で否定される相談者。
悲しいな。
私にご主人の潔白を力説しても、家に帰れば、夫を疑いのマナコで見るのは、何を隠そう、その妻なのです。
何だろう?この村越から、自分の夫を守ったところで、本当は疑っているのは、誰でもない、相談者自身。妻なのです。
身も蓋もない言い方をすると、私は相談者のご主人が浮気をしていても痛くも痒くもありません。
真実を知りたいと、当方に来るから、何とかする為には事実くらいは知らないとね、というスタンスで
事実解明した時点で、夫を信じたくなるみたいです。
これは夫を庇っているのとはちょっと違う。
そういえば、私も結婚をしていた頃、そんな気持ちがありました。
夫を疑い、夫の遊びが段々見えてきた時点で、それを信じたくないというより、夫がクダラナイと思うことは 同時に私自身の尊厳までも失われることでした。
ましてや離婚を決意することなんて、私がこれまで我慢してやってきた努力が全部無駄と言われているような、これまでの人生、間違っていたと感じるのが怖くて、目を背けていました。
夫の欠点を認める事は、私自身を否定することでした。
その夫を選んだ私もクダラナイ人間で、そんなクダラナイ人間は、離婚をしようが、何をしようが、今後もクダラナイ選択しか出来ないんだとさえ、考えていました。
私の体験がすべての人に当てはまるとは思いませんが、最後に離婚を決意する基準は何だったかというと、
憑き物が落ちたように、これまで夫を求め、夫に泣いてすがって暮らしていた私が、急に馬鹿らしくなったのです。
これまの私は、自分自身を責めていました。
コンプレックスの塊でした。
特に女性としてはセクシーじゃないし、夫の喜ぶような妻ではなかったです。
料理は好きでしたが、掃除や片付けは、夫が家庭に見向きしなくなった時期と同じくして、私も家事を手抜きし出しましたので、益々悪循環で、妻として「何も出来てない」と夫の心が離れて言った原因はすべて私自身にあると、考えていましたが・・・・
ある日突然、憑き物が落ちる瞬間は来ました。
その途端に、「私ほどのいい人間が、こんなクダラナイ男のことで悩むのはもったいない」と、何か心の声が聞こえたのです。
その途端、私を苦しめていた物の正体が見えました。
夫にはそんな言い方はしなかったですが、心の中では夫に対して、「私ともあろうものが、お前にはもったいない」と、自分を卑下する気持ちが無くなったのです。
そう思うと、ウエットな考えはなくなりました。
それがどんなきっかけで、そう思ったか、記憶にはありませんが、恐らく苦労のしすぎで、「お腹いっぱい」になったのだと思います。
だから、まだご主人のことを信じたいと思う人は、そこまで苦労でお腹いっぱいにはなってないのかもしれません。
でもね、信じるって、片思いじゃないと思うのです。
妻だけが、夫を盲目に信じて、夫は妻に対して逆切れして、妻のことを見下す・・・・・
これって、信じるって事とは違うと思います。
何故なら、信じるというのはお互いが、「信じ合う」って事だから「合わない」といけないのです。
片一方だけが信じてる関係って、盲目の愛を通り越して、「見えてない」ってことですから。
あ~~私って良いこと言うな~。
では今日はここまで。