夫は浮気を反省しない。
信じると言うこと。
今日はこのテーマについて書いてみます。
信じるという美談人を信じると言う言葉は、美しい言葉です。
これが生活の中で自然の営みとしてなされているのが理想です。
でも残念ながら当方に訪れる妻はこの信じると言うことを手段とする人が多いのです。
と、言うことは自然な形で信じられていないということです。
では、よく相談されるパターンをお伝えしたいと思います。
まず「どうして夫を信じたらいいか」という相談です。
これは何故信じれないかという点に、答えがあります。
恐らく妻の信頼を裏切るような出来事があったのでしょう。
それがお金の使い道なのか借金なのか、暴力なのか、色んなことが考えられますが当方に寄せられる相談は浮気問題が最も多いので、今日はそれに付いてお話します。
この信じると言うことは 人と人との関係性においては基本の部分です。
特に夫婦はここが無いと始まらないと言っても過言ではありません。
しかし、長い人生、信頼を損ねるような望まない出来事は起きてきます。
そんな時に どうやってそれを乗り越えるのかは、その中身にもよりますが、それがお互いに過ちだったと思うなら、改めればいいのです。
それで絶対に信頼が取り戻せるかどうかなんて やってみないと人生は分かりません。
夫が浮気をしたから、今後はやり直せるかという質問を受けますが、それはやり直し対策や、浮気の程度、そしてなによりも その登場人物の人間性によって織り成されるものですから、一言で、できますと宣言したら、それはオーバートークになります。
色んな条件が合わさってのことですから、簡単ではありませんが、正しいやり方をすれば、成功率が高くなるのは 世の中、何でも同じです。
色々内容によってその要素は違いますが、結果を焦らない事です。
これまで 私はコラムで信じると言うことに付いて何度か書いてきました。
信じると言うことに「無理くり」という言葉は要りません。
信じられないという時は まだ信じる段階ではないのだと思います。
単純に言うと、信じられるとは疑う余地がないということです。
それなのに、信じられずに悩むと言うことは 疑う余地がないという段階ではないのに、
何か信じると言うことで 山を越えようとしたと言うことになります。
信じられるかどうか解らないのに、信じようとしたと言うことなのです。
と、言うことは、信じられないのに、山を越える為に信じることを手段としたと言うことになります。
信じることは手段ではありません。
自分の気持ちに鞭打って、信じるなんて、それは盲信でしかありません。
私のところに相談に来られる方は、その盲信をしたおかげで、またもや現実が見えなくなり、迷子になっている方が多いのです。
そして、「私が間違っていたのでしょうか?」と言われますが 貴女が間違っていたのではなく、
信じられないものを無理くり信じたということが間違っていたのです。
では、何故、無理くり信じたのでしょうか?
それは疑うことは、苦しいからです。
そして 夫を疑うことには後ろめたさを感じるからです。
その上で 浮気のことを夫と話し合った場合、夫からも信じてくれと言われるのです。
これは 夫がもう浮気相手と別れると言うことの代わりに妻は、もう二度と浮気を疑わないと誓います。
つまり疑わないと言うことと、浮気を止めて貰うと言うことが交換条件で約束をされられた事と同じ意味を持ちます。
しかし、その後も裏切られたトラウマが消えず、信じたいのに信じられないというギャップに妻は苦しみます。
そして時々、爆発をして、その不安を夫にぶつけた場合、「そんなに信じられないのか」と言うことを問われ、信じると言うことが夫婦がこの先、うまくやっていけるかどうかの分かれ目になると言うことです。
もし、夫の浮気が原因で、夫婦の間に暗雲が立ち込めていたとしたら、妻の努力だけで、暗雲をはらえるものではありません。
もちろん、夫が夫婦修復の努力をしているということがあったとしても、それで二度と疑うな、というのはおかしいのです。
基本、夫の過ちがあり、それを修正しようとしている中で、夫の浮気は長期に渡り、それを分かった妻とそのことで何度かぶつかり、やっと修復にこぎつけた矢先に、妻の夫が不安を漏らした途端、たった一度でシャッターを下ろすというのは、あまりにも酷です。
これ以上信じないなら、もう夫婦として無理かも?と突き放されてしまうことを妻が最も恐れているのですが、妻の信じられないと愚痴が夫は何故許せないのでしょうか。
何故妻はたった一度、信じなかったという失敗を許されないのでしょうか?
何故、夫は自分が悪いのに、その後の修復途上に置いての足並みが揃わなかったからと言って、妻だけのせいなのでしょうか?
それは今から書く事に、答えがあります。
つまり疑われることはご主人にとっては不都合であるからとも言えます。
もちろん、修復の努力を夫もしていて、それを信じてもらえないという純粋な失望もあるでしょう。
でも、これはお互いに乗り越えて行こうというのであれば、少しは大目にみてくれてもいいのに、冷たい事、この上なしという意味はどこにあるか考えて見ると、何やら、全面的に信じてもよいという状態ではないと思うのです。
と、いうことは信じてやまないと状態が生まれない段階で 急いで目をつむり、突き進んでいたとしたら、それは急ぎすぎましたね、ということです。
と、いうことは もう一度ゆっくりやり直せばいいのであって、そんな一度のつまづきくらいで、すべて無しにしてしまう必要はないということです。
ご主人の言うことを聞きたい事はわかりますが、無理難題までは聞く必要はありません。
それでも夫のことを盲目的に信じないといけないとしたら、それはそこで何か、事実に目を瞑ると言うことにもなりますので ここをようく考えないといけません。
私によく聞かれる事で、夫が信じられないけど、どうやったら信じられますか?と聞かれますが
そんなに無理くり信じなくても 本当にその状態になればいやがおうでも、信じられる時期がきたら、自然とその状態になります。
信じられると言うことは 「疑う余地がない」という状態が起きていることをいいます。
疑わしいことが消えないのに、どうやって信じればいいか、なんてそれを無茶というのです。
無茶はいけません、無茶は。
何故、まだ信じられないかというと 単なる猜疑心でない限り、まだ信用に足ることがないということです。
人と人との信用はある程度の時間を持って、生まれるものです。
まして一度信用を失っているのはご主人なのですから ご主人から、妻が信じられないと言われてしまうことには 時間が掛かると言えばいいのです。
信頼感を取り戻す努力は、どちらか一方だけがするものではありません。
では今日はここまで。