気のもちようで
昨日の続き。
まず、最初の重要事項。
父に、今さらながらだけれど、
「母の介護を自分がする」というしっかりした自覚を持ってもらうこと。
母のトイレの介助や、着替え、布団への誘導、寝かせ方・・・などなど
今まで私が(私だけが)していた時も、折に触れ、
これこれこうやって・・・とか、
ここが気をつけなアカンとこやねん・・・などと
具体的に動作をしながら、声に出して伝えてきたつもりではある。
ふんふんわかった。
そうか・・・なるほど
というような、父の返事も聞いてきた。
しかし、実際は、「見てただけ」、「聞いてただけ」だったのだ。
改めて、本当に、「自分がする」という立場に立たないと、
何の知識も、耳学問も 役には立たないということ。
私も今までは、父に少しでも楽をしてもらおうと思っていた。
昼間、ずっと母のそばについていてもらうだけで十分なので、
後のことは私がしようと、そこは腹をくくっていた。
「楽(らく)」とは何か、
本当の「楽(らく)」というものを はき違えていたのだ。
やらない、やってもらわないことが「楽」だと思っていた。
けれど、違った。
やらない、やれないから、いざというときに不安。
自分がしないといけない状況、その状況を作り出した原因に対して、
恨んだり、怒ったり、憎んだり・・・さまざまなストレスが起こる。
やれたら、自分ができたら ドーンと構えていられる。
そこに生まれるのは、自信かな
不安より、自信が持てた方がいい。
人任せで、いざというときを恐れて、びくびくするより、
腹をくくって、取り組んで、いざというときが来たら、
「いよいよ出番っ!!」ってなぐらいに、はりきれたら
そのほうが、ぜったい心強いし、ストレスがない。
いくつになっても、どんな状況でも、ストレスがないということは、いいことだと思う。
けっして「能天気」というのではなくて、
「腹をくくって向き合える」という姿勢かな
こうして書いていたら、なんだか介護の話ではなくて、
生き方(在り方)の問題だとも思えてきた。
もちろん、自分もまだまだそんなレベルになんて遠い。
それでも、父と一緒に母の介護をしていく中で、
今、ココを、クリアにしていかないといけないことだと思った。
父の人生にとって。
母の人生にとって。
私の人生にとって。