車いすで
前回のコラムで、母が急にお箸が使えなくなって、
口からもごはんがこぼれるようになった話を書いた。
幼馴染で、医者であるみっちゃんから、
もしかしたら軽い脳梗塞の可能性があるのでは・・・という指摘を受けた。
とにかく一度みてもらったら・・・ということで、
ちょうど次の日 定期健診の日だったので 診てもらった。
まあ特に何も問題は無いでしょう~ となりました。
結果としてよかったけれど、
なぜ、母の状態を見た時に、その可能性があるかもということが
自分に浮かばなかったんやろうか・・・ということに つかまっている。
知識で知っている。
仕事で出会う人には、万一の場合を考えて、伝えることは伝えている。
その基本は、起こる(起こった)事柄には、必ず原因、理由があるということ。
母を見ていて、全く浮かばなかったのは、
私が見たのが、いやちがうか、私が問題としたのが、
“こぼす”という動作ではなくて、
“こぼれて散らばりまくっているごはんのかけら”だったのでは・・・と思う。
拾わなあかんし、足元まで落ちて踏みつけてしまっているから、
靴下も変えて、雑巾でふいて・・・それから・・・
あれもして、これもせなあかん
あ~~~バタバタバタ・・・・という感じ。
もちろん、姿勢を直したり、テレビを消したり、いろいろ考えて、やった。
考えて、やったけど、それは、
”こぼれて散らばりまくっているごはんのかけら”をなくすための対応であって、
そこで、それだけで完結している。
何をしているのか と思った。
対処することにだけ 意識が向いていた。
今回、何もなくて、良かった。
もちろん、先に自分で気づいたからといって、大きく何かが変わるわけではない。
おこることは起こるし、
ある意味、おこったことは仕方がないと受け取るだろうことは、今までと変わらない。
けど、日々の中で、
少しずつ症状が進む中で、
こんな風に、“対処する”ことに慣れてしまったというのが、事実。
身近すぎて 見えなくなっているのか、
そもそもの心根が 慣れることで違ってきているのか。
考えないといけないこと。
目をそらしては あかんこと。