自利利他で生きてみると

生まれは
1958年(昭和33年)4月28日18時40分に
兵庫県三木市の自宅で農家の長男として生まれました。
病院ではなく、自宅で産婆さんにとりあげられました。
血液型は、BOのB型です。
幼年期
まだ歩けない頃、縁側から落ちて意識不明の重体になりました。
お医者さんに、数日後ひきつけを起こせば助かる、と言われ、
そのとおりひきつけを起こして意識を回復したそうです。
生かされた人生です。
少年期
地元の三木市立三木小学校に入学すると同時に選挙で学級委員長に選ばれてしまいました。
出席番号が一番だったからです。
それからは卒業するまでずっと選挙で学級委員長に選ばれ続けました。
当時の先生は、学級委員長には厳しく、学級内で起こった問題は、全て学級委員長の責任で解決することを要求しました。
そんなこともあり、自習時間になると、私はいつも教壇に立ってクラスメートに
「静かにしてください」
と叫んでいました。
「おまえは先生ちがうやろ。偉そうにいうな」
と他のクラスメートに反発をくらいながらでした。
この頃、長の責任感が植えつけられたような気がします。
卒業式では、卒業生代表で答辞を読みました。
その時に他の卒業生は皆、中学の新調した制服を着ていたのに、卒業生代表である私だけは、小学生の制服のまま出席していたことを、母が情けなく思ったそうです。
小学6年の夏から父が胃がんで入院していて、母は子どものことに手が回らなかったのです。
もっとも当時、私は服のことなど気にかけたことなどありませんでしたが。
中学時代
昭和46年4月に三木市立三木中学校に入学しました。
入学と同時に剣道を始めました。当時は森田健作さんの剣道ブームで部員がたくさんいました。
中学1年生の夏、父が亡くなりました。
これを機に私の中から、「わがまま」も消えてなくなりました。
その後、1か月ほどして、自転車で買い物にいく途中に突然意識不明になり、倒れて道端の側溝の角に頭を打ち付けて頭蓋骨を骨折しました。
以後、2か月入院しました。
原因は不明です。赤ん坊のときに頭を打ったことと関係があるかもわかりません。
退院後、すぐに2学期の中間テストがあり、このときに学年で3番になって、学校にきてないのにどうしてなのか、不思議がられました。
剣道部は、2年生の夏休みが終わったころに辞めました。
どうも、性格上、偉そうな先輩がいるとダメなようです。
3年生になって、サッカー部に入部しました。
チームメートに結構すごいのがいて、おかげで県大会に出場することができました。
高校時代
昭和49年4月に兵庫県立三木高等学校に入学しました。
元女学校だけあって、のんびりとした校風の学校でした。
入学と同時に中学時代と同じサッカー部に入部しました。
他にもっとやりたいことがあるような気がして、あまり熱心にサッカーはやりませんでした。
1年生の秋になって、アメリカンフットボールにあこがれている友人とともに同好会をつくりました。
偶然にも体育の先生が関東1部リーグの日本体育大学でアメリカンフットボールの経験があることが分かり、顧問を引き受けてもらいました。
これが、奇跡を起こしました。
解散の危機を乗り越えて、創部2年で関西大会に出場できたのです。
このあたりのことをモデルとして小説
「勝たなかったチーム」が完成しました。
https://note.com/ushikiti0505/n/n7ce6aaa62683
興味のある方はゆっくりとお読みください。
高校3年生の秋までフットボールをやっていました。
母子家庭であったため私立の大学進学という選択肢はなく、働きたくなければ通学できる神戸大学に行くしかありませんでした。
クラブ引退後は、毎日10時間の受験勉強を続けて無事に神戸大学工学部電子工学科に合格しました。
進研ゼミの全国模試で2番を取って賞状が自宅に届き驚きました。
そして、受験勉強をやっていたとき、ある時期から不思議なことに合格して通学している自分の姿が頭に浮かぶようになりました。
大学時代
入学と同時に、同好会として発足したばかりのアメリカンフットボール部に入りました。
まだ、リーグ準加盟の弱小クラブでしたが、たまたま同期に経験者が5人、そのうちキャプテンが私を含め3人もいて、監督は3年後の一部リーグ昇格も夢ではないと考えました。
監督の予想よりも1年早く2年後に関西学生リーグ昇格をリーグスピード記録で果たすことになります。
私はディフェンスバックのポジションリーダーとして、部員に厳しい練習を課し、批判をあびたこともありました。
3年生の秋に一部リーグ7位の大阪経済大学に28-20で勝利、念願の関西学生リーグ(1部リーグ)昇格を果たします。
その後、我が神戸大学RAVENSは、現在までほとんどを1部リーグに所属し、活躍しています。
’90年の京大との国立決戦は有名です。
私は、RAVENSの元OBOG会長です。
平成17年には神戸大学アメリカンフットボール部RAVENS創部30周年記念大会実行委員長を務めさせていただきました。
神戸大学トップページ/RAVENSから学長に寄付金贈呈
サラリーマン時代
大学を5年で卒業して、地元の神戸電鉄株式会社に入社しました。
入社時の挨拶で、重役を前にして
「最後までこの会社にいるつもりはありません」
と宣言してしまいました。
今思えば、なんと生意気な新入社員だったことかと、反省しています。
当時大卒は全員が電車の運転免許を取得することになっており、私も甲種電気動力車運転免許(電車の運転免許)を持っています。
そして、運輸部の研修が終わって配属されたのが、技術部電気課という、電車の安全運転を維持するための現場でした。
新入社員から見ればおじいちゃんのような人がたくさんいました。
結構、かわいがられたと思います。
入社7年目にして係長になりました。
技術部電気課通信係長という役職です。
事故や故障があれば真夜中でも対応しなければならない部署で、夜中の電話にはいつもピリピリしていました。
平成7年1月17日に阪神淡路大震災が起こり、神戸電鉄も相当な被害を受けました。
工事業者や上役と半ばけんか腰で、6月22日の全線開通までこぎつけました。
始発電車の中のお客様が、夜間工事が終わってホームで待機している我々に向かって、車内から立って手を振ってくださったときの感動は今でも忘れません。
震災復旧が終わってから、ある出来事がありました。
鉄道関係の協会で、ある大手の鉄道会社の社員さんが、こう言われました。
「君のところのような中小では、技術士免許は、取れんわな。うちでも2,3人しかおらんのやから。」
技術士免許とは、5大国家資格(弁護士、弁理士、公認会計士、技術士、不動産鑑定士)の内の一つです。鉄道を監督する国土交通省が、この免許を持っている鉄道会社には、手続きを簡便化する制度を設けたことで、鉄道業界での注目度がアップしたころでした。
その言葉に反発した私は、中小企業でも、技術士免許が取れることを証明したる。
そう心に誓って、受験勉強を開始しました。
そして、平成8年度に技術士試験に合格しました。
これで、5大国家資格のうち技術系資格(弁理士、技術士)の1つを取得しました。
震災後、少子高齢化とあいまって、鉄道の経営は苦しくなりました。
当時現場の課長職だった私は本社に異動となり、全線ワンマン化と、駅の無人化の推進担当になりました。
本社で計画を策定した後、今度はそれを実行する運輸部の課長に異動となりました。
自分の計画を自分で実行しろという会社の意図でした。
リストラを進める中、「人を放り出して面白いやろな」とか、「若造が現場も知らんと好きなことをやっとる」とか、影口を叩かれました。
しかし、私には、自分の出世のためにやっているのではない。会社の存続のためにやっている、という信念がありました。
リストラが一段落した平成13年8月に弁理士になると公言して会社を辞めました。
新入社員のときに公言したことを実行するいい機会だと思ったこと、出世のためにリストラを推進したのではないことを証明する必要があったこと、この2点からの決断でした。
会社設立時代
しばらく失業保険をもらいながら、弁理士の勉強のために図書館通いを続けました。
携帯電話の申し込みをしたときに、無職だったために契約ができずに、改めて鉄道会社の社員であることのありがたみが分かりました。
失業保険が、切れると生活ができなくなるために、とりあえず生活のために、学習塾を始めました。
いわゆるお勉強のできる子を教える気はさらさらなく、学校の勉強についていけない子を助けたいと、先生1人に生徒2人の担任制完全個別指導を始めました。
開業時の生徒はたった5人でしたが、今では多いときで80人の生徒をかかえるまでになりました。
これと並行して、神戸電鉄のおかげで、行政の外郭団体や、観光協会さんのホームページの仕事を受注しました。
それまで、ホームページなど作ったこともないのに、いきなり受注するとは、今思えば無茶をしたものです。
しばらくは、徹夜で社員と共にホームページ制作技術の勉強をしました。
生きていくためには、それぐらいのことも必要だと思っています。
おかげさまで、有馬温泉観光協会さん、六甲牧場さん、北神急行電鉄さん、神戸フルーツフラワーパークさん、神鉄バスさん等の名の通った事業者さんと契約ができました。
また、地元に戻ってくると、急に地域社会の用事が増えました。
平成18年には、三木小学校の創立50周年記念事業の実行委員長を仰せつかりました。
また、平成20年には、三木ライオンズクラブにも入会させていただきました。
弁理士受験生時代
会社経営の傍ら、弁理士受験を続けました。
塾の仕事が終わるのが、午後10時頃なので、その後ご飯を食べて、それから毎日2時間程度勉強を続けました。
平成14年 1次試験 不合格
平成15年 1次試験合格、2次試験不合格
平成16年 1次試験合格、2次試験不合格
平成17年 1次試験合格、2次試験不合格
平成18年 1次試験合格、2次試験不合格
平成19年 1次試験合格、2次試験不合格
平成20年 1次試験合格、2次試験不合格
平成21年 ※1次試験不合格 最初から出直し
平成22年 1次試験合格、2次試験合格、3次試験不合格
平成23年 1次試験免除 2次試験免除 3次試験不合格
平成24年 1次試験再合格 2次試験免除 3次試験合格
挑戦から11年かかっています。
この試験は合格まで私のような凡人だと、5000時間の勉強が必要だといわれていますので、毎日2時間ならこれくらいかかります。
先輩がおっしゃっていた「この試験は気持ちさえ続けばいつか合格する試験だ。」という言葉を信じていました。
実は、平成24年が、最難関の2次試験(論文試験)の合格による免除が切れるので、最後の試験でした。
平成22年は、一から出直しでしたが、夜明け前は一番暗いと信じ、再チャレンジしました。
天が味方をしてくれました。
弁理士実務修習生時代
これで、5大国家資格の内の技術系資格2つを全部取得できました。
技術士は純然たる技術系資格で、専門分野の知識が試験に活かせるのですが、弁理士は、法律の分野が多く、理系の頭脳構造には馴染みがないものも多く、大変でした。
3次試験(口頭試問)では、
「では、意匠法26条を条文通りに言ってください。」
などという全部で600条もある条文のどれかを暗唱させられます。
よく覚えている条文が出たのでラッキーでした。ここ何年かの3次試験はかなり当たり外れのある試験になっています。
後輩のため、早く改善されることを望みます。
技術士は、登録済みですが、弁理士は、弁護士と同じく実務修習を終わらないと、登録できません。
これから、2013年の2月末まで、実務修習がありました。
これが終了すると、やっと弁理士登録ができて、営業が開始できます。
弁理士には行政書士の資格も付いてきますので、こちらの登録もするつもりでした。
登録ができたあかつきには、少しでも地域社会の発展に貢献できれば、と考えていました。
特許事務所開業
平成25年4月10日 弁理士登録が完了しました。
登録番号は、縁起の良い 第18877号でした。
末広がりの八が二つにラッキーセブンが二つ。
4月12日 特許&技術士事務所を開業し、所長弁理士に就任しました。
インターネットによる商標登録出願受注開始
平成25年7月25日 日本全国からインターネットにより商標登録出願の申し込みができるインターネット商標登録出願受注システムを稼働。
日本全国からの商標登録出願の依頼受付開始
出願手数料ゼロ(無料)の商標登録出願
2023年末現在で商標登録出願件数全国6位にまでなっています。感謝、感謝です。


