61【登壇のお知らせ】ABCハウジング神戸東6月9日「相続と贈与」
5.早期退職の後
“厚生労働省世帯所得分布2022年”
話は戻る。
日本BEを早期退職し職安に通った。何度か転職をしているが、今までは一日も間を空けたことはなかったので初めての給付申請だった。配偶者が正社員で世帯としては収入があっても、資産があっても、本人が時間を使って働けないと給付対象となることに驚いた。セーフティネットというよりは、安全だから飛び降りておいで、と誘っているような気がした。良い条件のところが見つかればサラリーマンもアリというスタンスだった。日本BEの最終年収は900万円だったので年収を700万円くらいまで落とせば転職先が見つかるかも、と考えていた。自分としてはかなり譲歩しているつもりだったが、職安の担当者と話をするとそれはとんでもなく高望みだと知らされた。今、考えると年収700万円以上のサラリーマンは全体の20%などと言われている中ではそうなんだろう。職安は行くたびに敗北感を感じる場所だった。集団での説明会で職員が少しでも質問に答えられないと怒鳴る求職者もいた。「お前らは公務員でええかもしれんけど、オレらは必死なんやっ!!」失業してるのはアンラッキーな出来事もあったかもしれないが自分が人生の積み重ねの中で準備を怠たり、選択をしてきた途中経過だ。平たく言うと自分の責任だ。職員に八つ当たりしても仕方ない。一緒に説明会を聞いていて恥ずかしくなった。負のオーラが身体にまとわりつくような錯覚になった。
ある時、職安に阪急電車で行った。最寄り駅から職安への通り道に池田銀行の支店がある。新入行員時の配属支店で一緒だった先輩が支店長を務めている支店だった。銀行内でも出世しており僕も慕っていた先輩だ。アポはとっていなかったが10年ぶりくらいに会いに行ってみた。先輩は在席していて応接室に通してもらった。変わりなく精力的な雰囲気で突然の訪問を喜んでくれた。僕が銀行を退職したことは知っており、以降から近況まで話した。早期退職したこと、職安からの帰りであること、不動産を大きくしようとしていること。支店長ともなると理解してくれる器量があるかと思っていたが「お前はきちがいか!!」と一喝されてしまった。無職の人間に少しはやさしくできないものだろうか!?
誰もが一目置いていた先輩だけに少しショックだったが “そんな考え方をしているからいつまでたっても銀行員なんだよ!” と思うことにした。サラリーマンは公務員を「公務員だから世の中を知らない」と嫉妬を含みつつ批判する人が多いが、何十年も一社だけの価値観で過ごすのも同じことだ。見返すというより、認めさせたいと強く思った。
不動産賃貸業をしながら整骨院を開業しようと思ったのはカイシャなんてものが信じられなくなっていたからだった。リース会社時代に毎日のように整骨院の契約に走り回っていた時期があった。3年間の専門学校を卒業し国家資格である柔道整復師を取得すると1,000万円程度の資金で開業できる。健康保険をグレーに適用できて仕入れもない。お会いした整骨院の先生と呼ばれる人たちを見て、控え目に言っても自分が充分にできる仕事だと考えていた。失業保険の給付を受けながら柔道整復師専門学校夜間クラスへの通学を始めた。授業はおもしろかったし、一般的な勉強に比べるとカンタンだった。授業が18時からなので自宅を16時過ぎに出発し学割定期で通学した。ジーパンにTシャツ、スニーカー。ラフな服装で毎日を過ごした。21時過ぎに授業が終わると帰りはサラリーマンを目にすることが多かった。ヨレヨレのスーツにぼーっとした目、酒臭く汚い。それでもそんなサラリーマンたちがまぶしく見えた。専門学校の若い同級生はだいたいが昼間は整骨院でバイトしていた。収入のこともあるが実務経験を積みながら勉強し、卒業と同時に開業するためだ。僕は会社都合での退職のため失業保険給付が8カ月間あった。支給額は月21万円、しかも非課税。そのため、昼間は働かず不動産のお守りくらいで過ごしたが入学して4カ月すると夏休みになった。すると夕方からの外出も無くなりヒマになった。ヒマもツラかった。
ちょうど、その時に借入の金利交渉に成功した。4.5%、変動の1億円の借入の金利が3.5%に下がり、年間80万円ほど利息が軽減された。無職の状態なのに金利交渉が成功するとは・・・、銀行の先輩よりだいぶ優しいじゃないか!変化のない日々の中で久しぶりの嬉しい出来事だった。そしてすすむべき方向をもう一度考えてみることにした。
あと二年半学校に通い開業に資金を使うのか?不動産で生きていくのか?
僕は不動産で生きていくことに決めた。
でもまだまだ弱い。増やすためにもう一度、サラリーマンとして働くことにした。退学し就職活動を始めた。失業保険給付も終わりに近づくころ、日本BEが早期退職者向けに用意した再就職支援会社を利用し住宅メーカーであるキュウタイホーム株式会社の面接を受けた。ウソをつくわけにもいかないと思い履歴書の趣味の欄に「不動産投資」とは書いておいた。ちなみに再就職支援会社と転職支援サービス会社との違いは人材あっせん料、紹介料を退職した会社が負担するか、入社する会社が負担するかの違いだ。給与面の希望と待遇の開きは大きかったし、キュウタイホームに対するイメージも良くなかった。が、そこそこ大きな会社勤務であれば銀行融資は受けやすい。業務内容が希望に合っており、その後上司となる面接官がマトモな人だったので入社することにした。
6.再サラリーマン
キュウタイホームでの仕事はファイナンシャル・プランナーだった。店舗や住宅展示場に来た見込み客に対し、住宅ローンの説明やライフプランニングを行う。住宅営業マンをサポートし成約率を上昇させる、そして生命保険や火災保険を獲得する。面接を受けたときから、こんな職種が要るのか不思議だった。全部、住宅営業マンがやればいいハズなのに。
入社すると要るイミが理解できた。田舎の工務店がそのまま大きくなったような会社で急成長の歪があちこちに感じられた。中途入社のベテラン営業マンは曲者が多く、プロパーの新卒社員はまともに教育されず辞めていく。支店も本社も各種ハラスメントや不祥事案も多い。社員の入れ替わりも激しかった。入社時に退職する時の手続きもまとめて説明をする事務の女性も居たくらいだ。多様な人が集まる動物園。営業マンはとにかく目先の契約とカネ。圧倒的なコスパを武器に急成長したが他社の追随もはげしく、商品だけでは売れない時期にきていた。多くの来店客の中からたまたま買う人に当たるという販売方法に慣れきった営業マンは自分で客を探すことはせず、ひたすら店に座って客を待つばかり。「営業」とは言えない、「販売」だった。住宅はクレーム産業と言われるが、それにしても紹介顧客が極端に少ないことが会社と営業マンのレベルを示していた。そんな中でFPを利用して顧客満足を向上させ、来店や再来店を誘う、成約や紹介につなげていく。その初期FPとしての採用だった。
社会復帰したものの最初の年収は450万円。職位は主任で半年間は契約社員スタート。リアルに年収半減、ここまで下がると笑ってしまった。不動産のCFを合算しても年収は1,000万円を超える程度だ。これが日本の社会。いったん道から外れたらもう戻れないんだな、と痛感した。キュウタイホームには不動産を増やすために入社しただけで必要以上に働く気はなかった。とりあえずで大阪支店に配属となった。住宅営業マンに見込み客との個別相談をセッティングしてもらう必要がある。自分の能力や人格を理解してもらうよう努めた。一緒に掃除をしたり、草をむしったり、店舗の飾りつけをしたり。およそ非生産的な毎日だったが仕方ない。新しい職種で東京本社からの指示を現地支店の社員に自分で浸透させていくスタイルだったが、現地での理解もすぐに得られるワケではない。同じ部ですら同じ職種の人はほとんどいない。そもそも東京で指示を出している人間も敵か味方がわからなかった。
そんな状況だったが僕はあまり気にしないタイプだし、むしろ都合が良かった。定時に帰った。同じ会社にいる人ともほとんど飲みにいかなかった。時間とカネと肝臓のムダだ。新卒も含め、入社したての社員はまずは否定された。ろくに教育や指導、アドバイスもしないのに。それが自分や自分のプライドを守ることになっている会社だった。そんな中、僕は知識と経験と実績で支店の住宅営業マンからの信頼を得てスムーズに会社に慣れ自分の立ち位置を確保していった。
”人の役に立ちたい”と思うほうではないが、この会社で満足できる仕事が2つある。
1つは団信適用の件。
団体信用生命保険、略して団信。住宅ローン等を組むときについてくる生命保険のことだ。借主に万一のことがあっても銀行は生命保険で回収できる仕組みになっている。
ある6月、キュウタイホームで家を買って2年ほどの30歳過ぎの奥様からアフターサービス担当宛てに連絡が入った。「主人が遭難して帰ってこない。」
担当者に依頼され同行訪問した。まだ新しい家は明るい色調でまとめられていた。2人のお子様は小学校で不在。奥様はやつれていた。「4月に登山に行った主人が帰って来ず、警察やヘリでの捜索でも見つからなかった。そのためいろんな手続きをすすめようとしているが住宅ローンのことで困っている」「住宅ローンの団信を適用できないか、と借りている都銀店舗に出かけたところ ”受付できない、返済してもらう” と門前払いだった。パート収入しかなくて返済に行き詰まるのは時間の問題。家を売却はしたくないし・・・」という内容だった。ご主人が生きているかもしれない望みを抱きながら、生活のために”死亡した”という手続きをすすめるのは辛いことだろう。
僕は“失踪”で処理することを考えた。7年間行方不明なら死んだものとみなせる。死亡認定されれば団信が適用できる。裁判所に同行する約束をした。銀行が保全を図ってくる可能性も考えた。具体的には奥様や親族に保証人のサインをさせることだ。銀行が何か書類を持ってきたらすぐに連絡をもらうよう伝えた。しんどくても今まで通りキッチリ返済は続けることも念押しした。銀行に隙を見せてはいけない。帰り際にリビングの七夕飾りを見た。短冊には「パパが早く帰って来ますように」と書かれていた。
マトモな上司から“特別失踪”で申請してみるようアドバイスをもらった。 “失踪”は7年だが“特別失踪”と認定されれば1年で死亡したものとみなされる。何回かの裁判所での聴取を経て1年後に特別失踪として認定された。その結果を持って、僕は住宅ローンを借入している都銀店舗を訪問し「返せ」と言った銀行員と相対した。「なぜ、返せと言ったのか。なぜ、失踪手続きのアドバイス・ヒントを与えなかったのか」明確な回答はなく、この期に及んでも返済するのが当然とのスタンスをとっていたが、「それは御行としての最終結論でよろしいですか?本部や金融庁に確認しても同じ判断ですね?」、と言うとうろたえ出し、ようやく団信申請の受理に応じた。ただし、「判断は提携の生命保険会社の判断になるので必ず団信が適用されるとは限らないですよ」、と負け惜しみのように言いながら。裁判所の認定があるのに適用されないわけがない。3カ月ほどで団信が適用されローン残高がゼロになった。住宅の経済的な負担なく思い出の詰まった家に住み続けられる、奥様はとても喜んでくれた。僕じゃなくても誰かが力になってあげていたとは思うがキュウタイホームに入社して良かったと感じていた。
もう1つは取引銀行のパワハラの件。
住宅ローンの営業に住宅メーカーには銀行員がやってくる。いろんな銀行員が来るが案外、銀行員という生き物はあてにならない。その中でも最も頼れる地銀のローン担当者がいた。50代前半のフットワークの軽い丁寧な話し方をする人でシマさんといった。実際に成績の良い様子だった。案件の見通しなどの相談も快くのってくれ、事務的な能力も問題なく書類のやり取りや面談アポなども安心して任せられる人だった。その人の様子が変わった。元気がなくなりミスも多くなり言動にも余裕がなくなった。あまりの変わりようにコッソリと話を聞いた。「実は・・・、上司が変わりパワハラがすごくて悩んでいる」、とのことだった。シマさんは地銀に中途入社で働いていた。生え抜きの若い上司Aが中途組やオジサンをいじめているらしい。
僕は「Aの上司Bに話をしに行っていいか」、シマさんに確認した。幸いAの上司Bは面識だけはある人だった。しかし、それによってさらに状況が悪化する可能性もある。シマさんは「ぜひ、お願いします」と答えた。もう、現状が最悪の状態で限界だと感じていたからだった。僕は単独でBにアポを取り訪問した。まず、シマさんに頼まれてきたわけではなく自分の意思で来たことを告げ「シマさんの様子が明らかにおかしい。パワハラの件も聞いている。こんな状態を放置するような銀行とは取引できない。そして。シマさんを頼りにしているのに困っている」とできるだけ柔らかく訴えた。僕に銀行を選ぶ権限は一切なかったが、Bは心配と迷惑をかけてすまないと詫びたうえで改善を検討すると答えてくれた。ほどなくしてAが異動になった。シマさんはとても喜んでくれ元気になった。良いほうに転んで安堵した。僕の出過ぎた行動を受け入れてくれたBに感謝した。余計なおせっかいをするようになったのは、早期退職で社会の理不尽さに腹が立っていたこと、キュウタイホームをいつ退職しても構わないと思っていたからだろう。
出世したいとも思わなかったが1年が過ぎるころ、あまりに給料が低いので退職したいと申し出た。再就職から1年以内であれば再度、日本BEの再就職支援会社が使える契約になっていたこともある。東京から上司が飛んできて慰留された。条件として調整給という名目で月10万円ほど上乗せしてくれるようになった。昇格が追いつくとその上乗せ部分で調整していくのでそこから年収は上がらなくなったけれど。1年ほどして係長になりスーツにつける社章の色がシルバーからゴールドに変わった。副部長以上になるとキラキラバッジになる。社員はバッジを見ながら話をする。このあたりもザ・昭和。3年ほどして肩書は課長代理になった。調整給もなくなり生命保険の歩合80万円を入れて年収700万円程度までになった。年間休日は109日と少なく、正月も元旦から出社。2日続く休みを連休と呼んでいた。年収も全然物足りない。でも、社員は「働けるだけ」、「もらえるだけ」、ありがたいと口をそろえていた。この会社に所属していることに対する違和感は続いていた。そして、当初の業務内容が徐々に変化し、住宅購入見込み客からの生命保険獲得がメイン業務になってきていたのがおもしろくなかった。東京のマトモな上司も異動になり、セクハラ生保出身者が後任になった。詳しくは書けないが娘は絶対に入社させない会社だ。人事部も機能していなかった。東京と大阪であまり接点はないものの、伝え聞く理不尽なホラーには吐き気がした。そこで、最初の上司の下で働けないなら退職しようと考えるようになった。またしてもホネをおらせてしまったが、しばらくして東京本社への異動となり人生二回目の単身赴任が東京でスタートした。
~第7章・8章(4/4)に続く ~
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」4/4
第1章・2章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」1/4
第3章・4章はこちら
FIREした大家FPの自叙伝「シアワセの逆算」2/4