「遊び」について
子どもはみな 遊んで育つ。
好奇心に導かれて、自ら手を伸ばし、触って、味わい、掴んで、離す・・・
遊びながら、からだを使って、自分のからだと世界を知っていく。
こうして自分のからだを使って動くことで獲得した知を「身体知」と呼ぶ。
私たちは、何も考えなくても壁にぶつからずに曲がり角を曲がることができる。
自分のからだのサイズを知っていて、壁との距離を測りつつ、どの速度とタイミングでどの方向に向きを変えればいいのかを知っているのである。
意識をしていないけれど、知っていること。
意識をすることがないので、「暗黙知」とも言う。
子どもたちの遊びは、ときに大人の目からは無意味で無駄なことのように映る。
私たち大人は、目の前のやるべきことに気を取られ、ついつい遊びのこころを忘れてしまいがちである。子どもたちが発見する喜びから、改めてそのことを気付かされる。
自ら動いて知るという「経験」、からだを使った経験が、こころの成長の土台になっているのではないかと、常々考えてきた。パソコンやスマホの進歩で、指先を動かすだけで、瞬時に世界中の情報を知ることができる。多くの商品の中から欲しいものを選んで、買うこともできる。見たいもの、聞きたい音、欲しい物が簡単に手に入る。
しかし「身体知」はどうだろう。生まれてから日々からだを使って身についたものであり、歩き方、姿勢、何気ない所作など、そこにその人らしさが現れる。その人の生きてきた時間が垣間見えるのである。
「その人らしさ」を抜きにして、カウンセリングはできない。「自分らしさ」を抜きにして、自分のことを語ることはできない。自分のことを語ることがまた、自分らしさを作っていくのだと思う。