何のために
これまで、自分の力で生きてきた思う事は、きっとあると思います。そして、中には、人に頼らず、生きていく事が大事だと思っている人もいるかもしれません。
自分の力で生きてきたと思うのは、自分の意思であり、それは形では表せません。意思と同様に、感情も思考も目に見えません。
目に見えているものは、身体です。
身体を通して、感情や思考の一部を垣間見る事ができる程度で、存在として見えるのは身体になります。
このように考えると私たちの存在そのものは、身体があるから、「私」があることになります。
呼吸に焦点を当ててみると、自分の意思というよりも、身体が欲しがっている感じがします。意思で止めようとしても、身体が息をし続けるように働いてくれます。
心臓の動きも同じです。
「はい、止まって。はい、動かして。」と自由に心臓を操ることはできません。
身体は私の意思とは関係なく、生きたがっている事がよくわかります。
言い換えると、私は、身体に生かされているということになります。
それでは、何のために身体は、私を生かそうとしているのでしょう?
私は、身体を喜ばす事ができます。自分の身体だけでなく、他者の身体をも喜ばす事もできます。
負荷をかけることで、身体を鍛えることもできます。
かけ過ぎると身体が抵抗します。程々の抵抗であれば、身体も喜んでくれます。
他者についても同じです。ある程度の負荷は、鍛えることになりますが、かけ過ぎると抵抗に会います。
程々に負荷を与えることが、自他とも大事なように思います。
この調整ができるのは、主役である私の「意思」であって、感情や思考ではありません。
感情や思考は、意思の道具であり、感情が主役になると動物のようになってしまいます。思考が主役になると、意思の力が弱い状態で、自身の進むべき道から外れても判別できません。
主役である意思をうまく使うことが、生かしてもらっている私の使命かもしれません。
そのために生きるエネルギーを与えられているのかもしれません。
この時に役立つのが、「利他心」のように思います。
生かされている自分が、自分や他者のためにどのようにエネルギーを使って生きるか、知恵の使いどころです。
いずれは、身体も衰え、消えていく存在です。
生かされているうちに何を残していくか、考えどころです。
そして、そのために生きていく事が、生き甲斐になるのだろうと思います。
まずは、身体に感謝することから始まります。
身体を労り、長く付き合うためにうまく鍛えていきたいと思います。