森会長の発言は、女性理事4割実現の後押し?
私は、下校時の見守りを行っていますが、インフルエンザ感染後、やっていませんでした。
本日から再開する予定でしたが、畑仕事をしている最中に耕運機の部品がなくなってしまいました。
迎えの時刻になっても見当たりません。
結局、本日の見守りができませんでした。
見守りの時刻を気にせずに、部品を探し続けていたかといえば、そうではありません。
「子ども見守りに行くべきか」それとも「部品を探し続けるべきか」
のどちらを選べばよいか、葛藤してる自分がいました。
部品を探したい自分は、
・暗くなる前に探したいと思ったこと
・耕運機が使えなくなると今後の畑仕事に支障を来たすこと
・見守りを始めると、その後預かり事業があり、探す時間がなくなること
・再開が1日遅れても、大きな影響がないこと
・見守りはボランティアであり、義務ではないこと
と、「部品を探す」を選択するための言い訳が、次から次へと湧き上がってきました。
部品をなくし、高ぶった感情を抑える事ができず、感情に思考が踊らされ、身体もそれに従っている感じです。
これに対抗するかのように
子ども見守りをしたがっている自分は、
・長い間休んだので、子どもたちに会いたいこと
・代わりにやっていただける方がいないこと
・先生方からの信頼を裏切る事はできないこと
利己心と利他心がせめぎ合いをしています。
今回は、「利己心」を選択しました。
これまで、利己心を優先させる事に罪悪感を感じることがありましたが、少し角が取れた感じがします。
柔軟に対応する事が無理のない、生き方につながるように感じました。
日々の自分見つめが、役に立っているようです。
普通の状態ならば、起きるはずのない出来事が起きました。
神様に試されている事に気づきました。
子どもの見守りは、子どものためでもありますが、どこかで、誰かに見られている事を意識しているように思いました。
地域の人から承認されてがっている自分がありました。
子どもの下校時の安全を守ることであれば、耕運機の部品よりも優先すべき取り組みと考え、動く事ができますが、それほど強い意思がないことがわかりました。
・私がいなくても、十分安全な通学路であること
・高学年の子どもたちと一緒だから、低学年の子どもたちは守られていること
・ただ、10分程度のウォーキングの時間がなくなること
子どもの見守りについて考えるよい機会になりました。