身体を鍛える目的
相手のためになると思っても、お節介になる事もあれば、思いやりがあると伝わる事もあります。
動くべきか、動かざるべきか、選択を迫られる事は、日常茶飯事です。
昨日、研修会で、ゲームをしました。その中にグループで身体を使って課題を解決する活動がありました。複数のグループがあり、私の地区の仲間が、別のグループで取り組んでいます。そのグループがなかなか解決できないので、解決できた私のグループは、待っている時間だったので、気になってついそのグループの手伝いに動いてしまいました。
そのグループにいる同じ地区の仲間の動きを変えればよいと思い、つい解決の仕方を伝えたくなりました。
一言声をかけましたが、途中で止めました。
グループで解決する邪魔をしようとしている自分に気づいたからです。
困っている人をみると放っておけない自分があります。
そう言えば、このゲームの前にペアを作るゲームがありましたが、私は、同じ地域で固まっていたので、直ぐにペアができました。他の地域の人が一人でいたのが気になり、私のペアの方には、同じ地区の方にペアになっていただくようにお願いし、自らその方とペアを組みにいきました。
これも困っている人を放っておけない自分がした行動でした。
きっと助けに行った前者は、お節介だったと思いますが、後者は、思いやりにつながったと思います。
困っている状態は、同じでも、自ら乗り越える必要がある場合は、手を出さずに見守る事が重要になります。
それをわきまえず、感情に振り回されてしまう自分がいます。
きっと、困っている人に同一化し、困った時に湧き上がる感情が動き出すのだろうと思います。
その感情が湧き上がると、その感情に従って、行動を取ってしまいます。
前者の場合、私が動けば、自ら考え、判断して行動する大切な場を奪ってしまう事になります。後者の場合は、安心につながり、ほっとされると思います。
思いやるというよりも、困った人がいる場を解消し、自分自身が安心したいという思いで動いているように思います。
感情に流されるのではなく、一旦その場を離れて、視野を広げて、見つめ直し、冷静に判断するもう一人の自分が必要に思いました。
つまり、動くべきか、動かざるべきかを判断する自分です。
判断に迫る以前の問題です。まだまだ未熟な自分だと感じました。
この冷静に判断するもう一人の自分は、子育てにも役立ちます。子どもと同一化し、感情的になった時の判断は、視野が狭くなっています。視野を広くできる冷静さがある時の判断とは異なる事があり、誤った判断になる事があります。
冷静さを欠いたところでは、視野を広げて判断する事はできないと改めて実感しました。