エゴが邪魔をする
介護している父が、食事の補助をしている時、
「もう、お前、食事は済んだのか。・・・・食べさせてもらって、ありがとう。」
と、言いました。
いつも食事を済ませてから、実家で父の食事の介護をする事が日課になっているため、特別な事をしているわけでもありません。
この仕事が当たり前の事で、日々淡々としているので、この言葉を聞いた時に、一瞬戸惑い、言葉が出てきませんでした。
「そんなことないよ。これまで、育ててもらったから、感謝のつもりでしているだけだから。」
と、ぽろっと言葉が出てしまいました。
感謝という言葉が適当だったかどうかは、わかりませんが、特別な感情があって介護をしているわけではありません。
「仕方がないな。」と思った事はあっても、介護が嫌だとか、辛いだとか思った事はありません。
幸せなことに、退職後、割と自由に時間を使える仕事を妻と一緒にしているため、上手く時間調整をして対応する事ができます。
サラリーマン時代のように仕事に縛られ、仕事優先の生活でないため自分次第で自由に時間が使えます。
そして、私以上に妻が父を大切にしてくれている事も幸せな要因の一つだと思います。
ただ、これ以上に、父の状態が良いことが、幸せにつながっているように思います。
認知度もかなり進んでいますが、相手を責めたり、こだわりをもって私を困らせたりする事はありません。
「食事は済んだか。」と食事を済ませた後に聞く事がありますが、済んだ事を話すと、
「そうか。」
で済みます。お腹が減っているのかもしれませんが、我慢してくれます。
「えらい、今日は、行かない。寝とるわ。」
と、デイサービスに行くのを拒む事がありますが、
「頼むわ。昼間にここにいると、仕事ができず、こちらが、困ってしまう。お風呂も、運動も、食事もあるので、行ってよ。」
と話すと、嫌な気持ちを持ちながらも、ベットから起き上がろうとしてくれます。
温厚で、我慢強く、思いやりのある父の性格や、何とかベットから自力で動ける体力がある事、歯も丈夫で、補助すれば自分で食べられる事など、介護する側にとっての負担がかなり少ないように思います。
これも、これまでの父の生き方につながっているのだろうと思います。
そして、老いてもなお、相手を気遣う気持ちをもっている事や、生きようと辛くても動き続ける姿から、「生き方」を今でも学ばさせてもらっている感じがします。
習慣となって父の介護が続けられるのは、何故だろうと自問してみると、どうもここに学びがあるからかもしれません。
少しずつ、体力も衰え、箸が使えなくなると、スプーンやフォークに変え、上手くフォークが使えなくなれば、私が食べる物にフォークを刺すなど、父の老いに合わせて対応を変え、常に父に試されている感じがします。
老いを学び、今後老いを生きる自分のあり方を学ぶ良い機会に恵まれていると思っています。
実践を通して、老いを学び続けているのです。
老いを理解する事は、そのための予防や準備ができます。
父がいてくれるからこそできる学びです。
やはり、父に感謝しなければなりません。