見えないものを見たいものにする
介護を始めてから、父との会話が増え、「老い」や「死」を見つめる機会が増えてきました。
認知も進み、忘れてしまう事も多いのですが、幸い日常会話のやり取りは、普通にできます。
近頃、筋力の低下により、ベットで起き上がるのが、かなり辛くなってきました。
手で介助したり、電動ベットのスイッチを入れれば、簡単に起き上がった状態を作ることはできますが、あえて自力で起き上がるのを待っています。
脳は、楽な方を選択するので、介助される方を選んでしまいます。
案の定、日曜日にヘルパーの方が来てもらっていますが、見ていると、全く自分でせず、寝たきり状態で、自分から動こうとせず、全てヘルパー任せになっています。
辛くても、自力で起き上がる姿を見ると、「生きようと、必死でもがいているんだ。」と確認することができ、嬉しくなります。
3m離れたトイレまで手すりを使ってゆっくり歩く姿、ベットに横になる時、枕の位置まで腕や上体の力で移動させる姿などからもそれを感じ、「頑張れ!」と見守っています。自力できると、「よく頑張ったね。」と声をかけたくなります。
まるで歩き始めた子どもを応援する親のようです。
そんな父が、会話をしている時に、
「あとは、死を待つだけだ。」と微笑みながら、冗談ぽく言いました。
死を待つだけ
この言葉を聞いた時、悲しい気持ちにはなりませんでした。
「そうだろうな。これまでの人生を振り返った時、やるべきことは全てやったので、やり残したことは、きっとないのだろう。」
と、思いました。
「いつでも死を受け入れることができる」
そんな気持ちがあるのだろうと思いました。
小言一つなく、穏やかに毎日を過ごし、身体が感じる辛さと向き合うだけの日々を送っている父にとっては、充実した毎日を送っているように感じます。
私たちのように欲深く生きているから、小言の一つでも生まれるのですが、父を見ていると、世俗から離れ、全てを受け入れているようにさえ思えます。
「まだまだしなければならない事があるから、まだ死ねない。」と思っている私からすると羨ましくなります。
私たちは何某の役割をもって生きています。
老いと共にできなくなる事が増えていくことは、自然な事です。
それを受け入れて、逆らう事なく、生きている父のように見えます。
幾つになっても生きる使命がある事を身をもって示してくれているようにも思います。
さて、私は「あとは死を待つだけ。」と言えるように今を生きているだろうか。