理解の違いを受け入れる
最近よく目にする言葉の中に、
「生かしてもらっている」
があります。
この言葉の前提には、
「天から授かった命は、自分のものではない」
が、あるようです。
命は、自分のものと考えている人は多いと思います。
命は自分のものだと思っているから、どのように扱ってもよいという発想が生まれてきます。
そのため、自分の感情や自分の考えに従って、自由に自分の命を粗末にできるのだろうと思います。
自分の命と他人の命に軽重はないはずなのに、他人の命を軽く見て事件が起きました。
広島で、中学生が、同級生を包丁で殺そうとした事件です。
「誰でもいいから、殺したかった。」
物を借りた時、預かった物は、元通り、いやそれ以上の物にして、返す事は、私たちが、日常で行っている事です。
命が自分のものでなく借り物だと考えれば、自分を磨いてお返しするのは、当たり前の事で、粗末に扱って返すことなどできません。
まして、他人の命を粗末にすることなどできません。
例えば、
・自分の体を労わる事は、借り物を大事にしていることになります。
・食べ物に気を遣うのも、借り物を大事にしていることになります。
・運動を続け、体力をつけるのも、借り物を大事にしていることになります。
・睡眠時間を確保して十分休養を取るのも、借り物を大事にしていることになります。
このように健康で充実した人生を送ろうとすることは、借り物を大事にしていることになります。
身体だけでなく、感情や思考も自分のものではないと考える事ができます。
例えば、
私たち日本人は、日本人らしく言葉を使い、日本人らしく生活できるのも、私たちが先祖から受け継いだ過去の遺産を引き継いでいるからです。
感情は、その考えに基づいてその時々に生まれてくる反応だと考えると、これも自分のものではないと考える事ができます。
未来を築く事は、借り物を磨いて返すための営みと考える事ができます。
私たちが、悩んだり、苦しんだりするのも、借り物を磨くために与えられた試練なのかもしれません。
そして、私たちは、動植物と同様に、自然の摂理に従って、命を未来に繋ぎ、人間に与えられた創造力を発揮して、自然をより調和できるように生きる使命を与えられているのかもしれません。
このように、生かしてもらっていると考え、感謝して生きていれば、決して、自他の命を粗末にはできません。
戦争の影が忍びよる時代だからこそ、
命に軽重はなく、「命は天からの借り物」と考え、命を大事にすることは、大いに役立ちます。