人のために
父の介護のため、部屋には複数のカメラを設置しています。
1つのカメラで見える範囲では父の行動範囲をとらえることができないからです。
よく見ているカメラは1つですが、他のカメラは予備という感じです。
これは、私たちの見方・考え方と似ています。
日常生活では、常に1つの面から見たり考えたりしますが、いつもと違う出来事が起きると、見方や考え方を変えることができます。例えば、立場で考えたり、視野を広げて考えたり、時間の経過を追って見たりします。
何の疑問もなく、普通にしている事です。
これは、いつもと違う出来事は、異物が身体に入ってきた時に吐き出すことと同じで、自分を守ろうとする脳の働きによるものです。
私たちの脳は、常に自身の安全確保のために働いています。
例えば、
道路を歩いていても、常に変化する風景を目にしているので、素早く危険を察知できるように五感を働かせています。
ところが、話に夢中になったり、音楽を聴いたりしていると、危険を察知できるはずの脳が、十分機能しません。(五感)
歩きスマホで、事故に遭うのもそのためです。
毎日の生活を楽しんでいた私たちが、ロシアのウクライナ侵攻以後の物価高に腹を立てたり、苛立ちを感じたりするのも、同じです。危険を感じた脳が、危険を回避しようと感情を露わにします。(感情)
話し合いをしている時に、自分と異なる意見があると、自分の立場を守ろうと、必死になって説得しようとすることがあります。これも同じです。自分の考えが一番安全です。異なる意見は、危険だと判断して自分の考えを通し、安全な状態を保とうする脳の働きになります。(思考)
このように、五感や感情、思考は、私たちを外側の世界から自分を守ってくれています。
ただし、これらを十分生かして生活しているというよりも、これらに流されて生きているよう思います。
もし、歩きスマホはやめることができたら、
もし、戦争を早く終わらせることができたら、
もし、他の考えを受け入れることができたら、
流されることなく、自分の意思で行動することができたら、もっと幸せな生活を送ることができるのではないかと思います。
先日亡くなられた 稲盛和夫さんが、「真我」(本当の自分)を語って
おられますが、この意思を働かせることが、本当の自分に出会うための日々の営みのように思います。
私たちの生活は、五感や感情、思考に流されて生きている時間が多く、日々の生活の中で、意思を働かせ、本当の自分が選択した生き方をする事は、なかなかできません。
きっと稲盛さんは、それを日々の生活に活かしておられたのだろうと思います。
「稲盛和夫の遺した金言」(月間誌 致知)を読みながら、「私は、何のために生きているのだろう。」と自問しています。