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最近、ある雑誌の職人同士の対談で、「最近の若い方は、怒られ慣れていない。」と言う言葉を発見しました。
この言葉につながるかのような「最近の子育ては、叱らないんだね。」と言う話も聞きました。
怒る(叱る)ことが、パワハラになると捉えると、怒る(叱る)こともできません。
日本の若者の将来を憂う気持ちがわかる気がします。
時代の流れを感じますが、一つの道を極めたり、物事の本質をつかんだりするには、辛い事を乗り越える逞しさが必要です。
その逞しさは、他者からの深い愛情に支えられた厳しい姿勢によって磨かれます。
いくら意思が強い人でも、自分を超えた力で自分を鍛えることはできません。鍛えてくれる他者の存在が必要です。
夢をもち、夢を実現するためにも、この逞しさが必要です。
この逞しさは、仕事や人間関係にも生きて働きます。
時には、我慢強さになります。
時には、追求意欲にもなります。
時には、課題解決の粘り強さにもなります。
時には、ストレスに耐える強さにもなります。
時には、物事を創造する知恵を生み出します。
これは、働き方改革改革という枠には収まりません。
自分のために時間を有効に使うということは、仕事と生活との両立に大いに役立ちます。
決められ枠に自分を入れるのではなく、自分で枠を作ることになります。その枠も柔軟に作り変える事ができます。
その意味からすると、夢を持って働く「働き甲斐改革」にならないと逞しさに欠ける若者を育てることになるように思います。
時流に流されることなく、自分を大切にするためにも、叱られる事を「悪」(被害にあった)と捉えず、「善」(学びの機会を得た)と捉えると、ストレスも少なくなります。
叱られる事に慣れる事は、自分の成長に繋がるように思います。