無事も悩みも、子どもが与えてくれる学びの機会
家族の元気が子どもの元気
当協会が主催している不登校・ひきこもり支援活動の
〈たらちねの会〉と〈うぶすなの庵〉について
お話ししてみましょう。
〈たらちねの会〉は家族会、
〈うぶすなの庵〉は家族の居場所、座談会形式を
とっています。
いずれの会もその目的は、
先ず何よりも落とした肩を上げ、背筋を伸ばし胸を張り、
親御さんが元気になることです。
笑顔の回復です。
『笑う門には福来る』
「笑顔になれるはずないじゃないの!」と返ってきそうですが、
笑えない状態の時こそ笑顔が必要なのです。
笑顔を強引(笑)にでも作るから、笑える状態になっていく。
「福来る」です。
親御さんまでもがひきこもっていては、
解決しようがありません。
自助会としての意義
〈たらちねの会〉は、共通の課題縁で集まった
家族達の集まりです。
痛みを共有できます。
自分が抱えている痛みを理解、共感してくれる人たちが
いるのです。
血縁よりも濃い関係も生まれます。
自助会という性質上、互いが支えあい、励ましあい、
助かりあいながら、成長していける場です。
助け合うのではなく、主体性をもって、
それぞれが助かりあうのです。
自分が自分を助けるのです。
どうやって、自分を助けるのかを毎回90分の
講習の時間を取ってアドバイスしています。
現状を受け入れられるためには
わが子が学校に行けなかったり、ひきこもっている状態で、
どうやって元気を出せるのか?
目の前の現実は、すべてが恵みと解釈すればいいんです。
恵みの向こうにあるのは、豊かさです。
自分自身が豊かになり、家族の絆が深まり、
家庭に潤いができることは
恵み以外の何ものでもありません。
実際に、わが子の現状は、
わが家にとっての恵みの雨(豪雨)なんです。
「困ったもんだ」と悲嘆に暮れるのか、
「わが子が気づかせてくれている」と感謝できるのか。
どちらの態度と姿勢でのぞむかの選択は、全く自由なのです。
無力を悟る謙虚さ
感謝の気持ちは、謙虚さから生まれます。
親として決してわが子をコントロールできないという無力さ、
自身の見識に囚われ、行動をコントロールできなく
なってしまっている無力さを自覚できる謙虚さが、
何事にも感謝できる姿勢を作ります。
現状に感謝できてこそ、受容、現実直視ができるのです。
受容、現実直視ができないということは、
「否認」するということです。
事実を無きものとして目をそらし続けることです。
はたしてそれで、目の前のわが家に起こっている問題が、
どこかへ都合よく消えてくれるでしょうか?
もちろん、どこへも行きません。
それどころか、事態はよりこじれ、深刻化していきます。
事実から学ぶ姿勢
「否認」によって失われるものに、
正直さや素直さといったものがあります。
これらが失われると、学びの姿勢が出てきません。
「事実をもって是を示す」で、
目の前に起こっている出来事には、
すべて必然的な理由、原因があります。
ですから、あらゆることから気づき、学ぼうという姿勢が
あれば、すべてを受容することができます。
学ぶことで、自分を成長させることができるからです。
わが子を通して人生から問われていること
「人生に問いかける」と申しますが、そういう意味では、
私たちは、反対に人生から問いかけられているのです。
現実に起こっていることから、
何を問いかけられているのか、
何に気づかなければならないのかの答を
導き出さなければならないのです。
わが子の不登校、ひきこもりが教えてくれているものは何か?
その理由、原因は?
子どもたちは、心に何ものかを抱え、苦悩し、
留まってしまっています。
子どもたちへ寄り添うためには、理解が必要です。
痛みへの共感と現象への理解です。
そのためには、
見えないものを観る眼が養われていなければなりません。
心は臓器ではありませんから、目には見えないものです。
物が動いて風があるのが分かるように、
わが子の表情、仕草、行動などから心のシグナルに気づき、
そこに含まれるメッセージを
読み取っていかなければなりません。
理解がなければ適切な問題把握はできない
人は、自分が認識しているもの以外は、
目にしても適切に把握できません。
食した過去の経験、認識があるからこそ、
それが食べ物だと把握できるのです。
不登校、ひきこもりという現象への認識、理解があってこそ、
わが子に現れていることから、
隠されて見えない問題を読み解くことができるのです。
そのことは同時に、
自己洞察を深め、自分自身や家族がこれまで以上に
より鮮明に観えてくるという恵みを与えてくれます。
(次回へ続く)



