現象の理解が進まなければ、親が先に崩れ、一生のひきこもりとなる
ある支援者の取り組み
前回の訪問支援の記述に対して、支援団体の主宰者の方からコメントが入りました。
同伴支援ということを提示しておられます。
下記がコメントの内容です。
『いつもありがたく拝読させていただいております。
私は訪問支援からスタートしましたが、よりよいサポートを追求した結果、
訪問ありきを止めました。
訪問支援でも、結局は親子関係がその後の成長に大きく関わってくることが
わかり、 また親が成長するためには子どもにひきこもっていてもらう方が
よいことが わかったからです。
しかし、子どもが動き出した時点では訪問し、一緒にいろいろな場所に出かける
ようにしています(私はこれを同伴支援と呼んで、訪問支援とは区別しています)。
遊びを通して元気を回復し、また支援者との信頼関係を構築していくことを
目的として行っていますが、ミュージシャンやNPO活動家など多様な生き方を
している人たちと出会わせ、子どもの人生観・世界観を広げる狙いもあります。
(その後、ある程度元気が回復した時点で、カウンセリング的なサポートに移行する
ことが多いです)。
私は、現実的に(本人の意思で)社会復帰する際にはこのような同伴支援もあった方が
いいと思っておりますが、中光様はどう思われますか?』
柔軟で多様な支援
大変すばらしい取り組みだと思います。
私がかねて申しておりますように、ひきこもりは生き方の病です。
ですから、様ざまな生きざまに触れさせることはとても有意義なことなのです。
支援者としての私自身、何ものかを分析し、型にあてはめ、期待値に近づける
といったような支援法をかねて取っておりません。
青年たちにアドバイスしている内容は、全て自分で人体実験(笑)して効果が
あった改善法だけを伝えています。
自分をより良く成長させられる生き方を提案しています。
ですから、こちらの期待値に近づけるというよりも、彼らがどう化けるか(笑)
を楽しみにしているのです。
いろんな化け方があって、“らしさ”が出てくればいいんです。
訪問支援をせずとも出てくるケースが大半
ニート層に関して申しますと、なぜ彼らが健全な職業意識、就労意識が
育っていないかというと、社会の中で働くということに関して、
手本となるような、憧れとなるような仕事人が周囲にいなかった、
仕事に対して、やりがいや生きがいをもって取り組んでいる大人がいなかった
ということがあげられます。
残業で遅く疲れ果て、グチをこぼし、休日も接待ゴルフでいない会社員の父親に
育てられ、「絶対に会社員にだけはならない!」と言った青年もいました。
私が訪問支援をする場合というのは、どーしても自室や家から出られないとか、
頑固に意地をはっている(笑)場合だけです。
“どーしても”のみです。
しかし、この“どーしても”が当協会の場合は、前回にもお伝えしていますように、
意外(?)に少ないんです。
たとえ長期のひきこもりの場合でも、訪問まで至らずに、本人が動き出します。
もちろんそれは、やることをやればの話です。
では何をやるのかということですが、それは家族の当事者本人への
真の寄り添いです。
うわべだけのまやかしの寄り添いではなく、誠の真の寄り添いです。
それが何かは、是非〈たらちねサポート〉
https://peraichi.com/landing_pages/view/tarachine
へ参加してみてください。
支援者として求められるものは?
前回ご紹介した調査結果で、ひきこもり経験者、その家族の相談スタッフの
対応を期待している理由として、
「専門性や資格よりも、ひきこもりのことを理解し真剣に取り組んで
くれる人を相談相手として望んでいることを示している」
とありました。
これについても私は、ひきこもり長期化の一因であると述べました。
その理由をお話ししましょう。
何でも経験者が一番の理解者であるというのは、うなづけると思います。
確かにそうです。
しかし、こと“ひきこもり支援者、問題解決者に経験したことだけで適正か?”
となるとちょっと違ってくるんです。
精神科医の斎藤環氏がやはり、「経験者が向いているとは限らない」
といった見解をお持ちであることは、前々回のコラム〈訪問支援の是非を問う①〉
https://mbp-japan.com/fukuoka/earth-family/column/5171857/
でご紹介しました。
私は、別の理由で同じ意見をもっています。
どういう理由かといいますと、
ひきこもりになる青少年たちは、あらゆる事象をとらえる時の選択肢が
非常に限定され、偏っているのです。
自身の経験への意味づけに多様性がないのです。
それは、親ごさんも同じです。
だからこそ、傷つき、そして、ひきこもるという行動しか選択できなかったのです。
ですから、ひきこもりを経験したからとか、わが子のひきこもりを経験したから
とはいっても、必ずしも相談者、支援者に適性とは言い難いのです。
不登校、ひきこもりの問題解決の際に大切なことは、一般的解答ではなく、
あくまでも特定解を見いだすということです。
特定解というのは、「この子にとっては」という視点から導きだされるものです。
一人一人資質も、家族背景も、成育歴も違います。
経験者であっても、それは「自分の場合はそうだった」に過ぎません。
「自分がそうだったから、他もそう」ではないのです。
よく、勉強熱心な親ごさんが、いろんな関連書を読み
「結局どうすればいいか分からない」と判断に困ったり、
当事者が書いた本を読み「自分には参考にならない」という感想をもらす
当事者たちは、誰にでも当てはまるような解決策(一般解)を期待するから
分からなくなるんです。
特定解を導き出すというところになると、自身の経験だけでは追いつかない
部分があるのです。
必要になるのは、あらゆるケースに対しての支援経験です。
それも、自室から動けない状態から社会参加まで推移してきたそのプロセスに
共に深く関わってきた経験です。
なにも自身がひきこもった経験とか、わが子がひきこもった経験とかでもなくです。
訪問支援が本当に必要なものなのか?
こういったところからも見えてくる問題は、
「ひきこもり支援に何が必要か?」といったところが不鮮明なまま、
様ざまな論議がされたり、思いつき支援策が講じられていることです。
安易な訪問支援が及ぼす弊害はないのか、
訪問せざるを得ない場合のその目的は?
などにも関連することですので、次回までこのテーマに言及しようと思います。