現象の理解が進まなければ、親が先に崩れ、一生のひきこもりとなる
1.しなくていい苦労もある
昨今は、「不登校は不幸ではない」とか、ひきこもりを「たまたま困難な状況
にあるまともな人」といったような変な擁護論が目立ってきているように
感じます。
もちろん、不登校もひきこもりも、なにもそれだけで不幸のどん底という
わけではありません。
ですが、ですがです。
しないで済めば、つまりする必要が生じなければ、それにこしたことはない
はずです。
「生きているだけでもいいじゃないですか」という支援者もいたりします。
本当にそうでしょうか?
不幸でないことが幸福というわけではありません。
変に肯定すれば、かえって噓っぽく聞こえませんか?
2.引きこもるという情熱
擁護論と言えば、『引きこもるという情熱』を著した芹沢俊介氏がおられます。
その中で、「正しい引きこもり」というのを提案しておられます。
ひきこもりを病理とみなすことへの疑問は私も同じですが、
「なんとかしなければ大変なことになる」という社会の声に対する疑問や
人生の次のステップへ進むための大切な基盤となるという視点に対しては、
私は少し意見を述べなければと思います。
全体を通して一番強く感じたのが、ひきこもるという現象により失われて
しまうことへの認識に欠けるということです。
それだけになんとか肯定化したいという意図が見え、ひきこもりへの意義付け
に強引さが感じられます。
事例がほとんどが芹沢氏自身のものではなく、いわゆる他者の事例に対しての
評論です。
これは評論家であって支援者(氏の表現では「引き出し人」)ではない芹沢氏に
よるものであるだけにやむを得ないとは思いますが。
3.時の経過で変わる?
引きこもりのプロセスとして往路⇒滞在期⇒帰路(復路)をたどるのが
「正しいひきこもり」なのだそうです。
氏の論調を見ていますと、プロセスを経て時期が来ればひきこもりから脱する
ことができ、それは新しい自分へ再生できると期待をこめて論じておられる
ようです。
はたしてそうでしょうか?
現実はそうはいかないようです。
ロジェリアンの来談者中心療法をふと思い浮かべましたが、クライアントの
潜在的自己解決力を信じすぎ、説得してはいけない,教えてはいけないと,
極めて受身的になってしまっているカウンセラーのようです。
私がこれまで関わった青年たちの中にも、カウンセラー(臨床心理士など)との
間の沈黙が怖く、辛いといって、カウンセリングを継続できなかった青年が
決して少なくありません。
ひきこもり状態の青年たちは、極めて思考に柔軟性を欠き、複数の行動の
選択肢を持ち合わせていないということを芹沢氏は知るべきです。
自己領域にこもることで「私は私のままでいい」という心境に至り、帰路へ
つけると述べていますが、残念ながら自力だけでその境地に至ると期待するのは
淡い幻想でしかありません。
野狐禪(やこぜん)を彷彿させます。
悟った気になっている独りよがりの思い込みです。
彼らには、新たな視点を提供し、選択肢を増やしてあげる手伝いをしていく
必要があります。
黙って話すし出すのを待っていたり、気づきを得るのをひたすら待っている
だけでは、ただただいたずらに時を経過させ、長期化(高齢化)、深刻化させ、
解決を不可能にしてしまいます。
病理を発症させてしまうといったことにもなりかねません。
教育評論家によるひきこもりの分析がこういった内容であることに危機感を
感じました。
4.悲観でもなく楽観でもなくありのままに
芹沢氏は、ひきこもりを病理とみなし、治療の対象にしようとする者の中に、
家族の不安をあおり、ひきこもりを商売の種にしている人(精神科医?)もいる
と批判し、それが社会的背景、社会状況への視点を脱落させてしまっている
からだと述べています。
しかし、氏の視点は、当事者家族に現実の状況を見誤らせ、マニュアル的な
プロセス仮説で、期待感を増幅させ、終わらぬひきこもりのゴールを夢見
させてしまっていると私は感じます。
そして氏が疑問視するひきこもり病理論を結果的に現実のものとしてしまう
ことに気づかれておられないようです。
5.押し出すタイミング
氏は、『少年育成』という雑誌の中でのある座談会の記事をあげ、
「待つ」という保護的な関わり方だけではなく、「押し出す」姿勢が必要と
述べています。
この座談会は、フリースペースの主宰者たちが、フリースペースを離れたある
青年が「この五年間何をしてきたんだろう」「もっと早く出ておけばよかった」
という感想をもらしたことから、通所年限を決めるようにしたという内容で、
要はひきこもりの場所が、自宅からフリースペースに変わっただけという
事例です。
氏はこれに共感しつつも、押し出すタイミングが大切と述べています。
私は、ここにひきこもりが長期化していることや、支援施設を出た後も
次の行動を取れない青年たちの訳が見えた思いです。
先に述べたように、待てば確実に長期化します。
では、押し出すか?
なんとなく時期を見はからって押し出したところで、本人は途方に暮れる
でしょう。
社会に参加できるだけの状態に導いてあげた上で、本人の意志で巣立たせる
べきだと思います。
私の所でも、ある施設で四年間カウンセリングを受け、このまま社会へ参加
できる実感がもてず、カウンセラーに相談したところ、
「私の手にはおえないから精神科にでも行って」と切り捨てられた青年が
いました。
30歳を前にしてです。その無念さたるや。
泣きじゃくりながら訴えるその姿はとても痛々しかったです。
6.見守りは楽な分効果なし
芹沢氏は、「待つ」から、本人に責任をもたせ、親は本人につき従う「見守る」
に変えてみることを提案しています。
しかし、これは言葉ほどの違いはありません。
私は「見守り」は単なる見送り。問題の先送りと言っています。
聞こえのいい、何もしない言い訳であり、言葉のすり替えです。
親や支援者が一番手を抜いたやり方です。
直視恐怖からの逃げの手立てです。
芹沢氏は、ある精神科医の話をあげ、本人との面接も治療もなく、親の
見守る姿勢をサポートしただけという事例の対応法を、ひきこもりに対する
基本的かつ正しい対応だと論じています。
この事例は、十年以上のひきこもりのケースですよ。
あきれます。
親の見守る姿勢をサポートって何でしょう?
何をしたのでしょうか。それとも何もしていないのでしょうか。
芹沢氏の論調は、ひきこもりによって失われてしまうことがあることが
見落とされています。
当然長期であればあるほどそれは大きな代償をはらうこととなります。
そしてまた、引きこもりの失敗と称して、自分が主張する「正しい引きこもり」
ができなかったら、凶悪犯罪者にもなってしまうといくつかの事件を引き合いに
出し述べています。
一部のメディアや氏のような評論家たちが、ひきこもり=犯罪者予備軍といった
誤ったイメージを社会に与えていることに強い憤りを感じてしまいます。