親子で苦難を乗り越えたはてにある絆のぬくもり
不登校にしても、引きこもりにしても、親たちは何とか本人を動かそうとして
しまいがちです。
しかもいきなりです。
これでは、なおさら本人は心を閉ざし、閉じこもってしまい確実に長期化していきます。
当然のことです。
本人は動けないことが大前提であることをゆめゆめ忘れないようにしなければなりません。
もとより動けるくらいだったら、はじめから引きこもってなんかいません。
ですからもし、「ご本人を今度は連れてきてください」と促す相談窓口であれば、
もうそこへ二度と行く必要はありません。無意味ですから時間のムダ。いや害です。
不登校の場合、学校側から「癖になりますから、強引にでも連れてきてください」と指示
された保護者もいます。
癖どころかかえって怯えさせ、ますます頑なにさせるだけです。
教師が自宅にまで来るというケースもありますが、恐れている校舎がわざわざ歩いて自室
に訪問してくるようなものです。落ち着いて対処できるはずもありません。
優先順位を間違えば総崩れ
肝心なことは、前へ進めさせる意欲を出させることの前に、抱えている苦悩を解消することが
先だということです。
お腹が痛いときに、どんなに好物の御馳走でも食べる気がしますか?
順番が違うんです。
かと言って静かに見守っていても、それもまた長期化させます。
黙って見ているだけで自然に意欲が出てくると思いますか?
トゲが刺さって痛い思いをしているのに、刺さったままでは意欲なんか出てこようはずも
ありません。
トゲを抜いてあげる必要があるのです。
わが子の心配が無くならず心痛めているときに、職場の人や友人たちから「元気だして!」
と言われても、わが子の問題が無くならない限り笑顔にはなれないでしょう?
それと同じです。
自分の身に置き換えて考えてあげることを忘れないで下さい。
未来を照らす希望
ひきこもり者(以下ひき者)たちは、自身のこれからに希望をもてないでいます。
そうなると、今何かに積極的に取り組むことが、まったく無意味なことに感じられるのです。
だからこそ、昼夜逆転など自堕落な生活になっていくのです。
「希望」というものを勘違いしている人たちが多いようですね。
「失敗ばかりしてきた自分が、将来に希望なんてもてない」と、ひき者らはよく言います。
学歴なし、才能なし、取り柄なし、キャリアなしと。
自分に自信のない者が、これからに希望をもつことなんかできないと。
わが子のその言葉に同調してしまっている親もいます。
「わが子の現状を見ると、希望なんかもてません」と。
「将来は、何の保証もない。だから希望なんてもてない」といった理屈で、
実現できる、達成できる保証がなければ、新たなことに取り組めないと言います。
将来に保証なんてあろうはずもありません。
そういった考えしかしないから、引きこもるような生き方を選んでしまうのです。
「希望」とは、将来に保証がないからこそもつべきものなのです。
どうなるか分からない不安があるからこそ、希望をよりどころとして、自分を支えていく
のです。
希望をもつかもたないかの選択の自由は、保証されています。
自分の意志により、希望をもつことを選び取る自由は与えられているのです。
だのになぜ、わざわざ希望を捨てることを選ぶのですか?
「希望」とは、より良く(Well being)なることを前提に、臨んでいくことです。
今よりも良くなっていくことを前提にして、そうなるように事を進めていくのです。
よく「うちの子大丈夫でしょうか?」と、ご相談者から尋ねられます。
大丈夫かどうかなんて誰にも分かりません。
大丈夫にしていくんです。
心配して夜も眠れないという方もいますが、心配は、時間とエネルギーの無駄です。
心配するヒマがあったら、心配しているような状態にならないように手立てを打っていく
ことに、時間やエネルギーをかけていくべきです。
心配は、今より悪くなることを前提にしています。
だから、不安になるのです。
「希望」を行く末を照らす光として、これからに臨んでいけばいいんです。
より良くなることを前提に臨んでいくのです。
ひきこもり者の苦悩の源泉
では、より良くなるとはどういう状態だと思いますか?
もちろん、働くことや学校に通いだすことではありません。
脱ひきこもりや脱不登校は、就労や登校では決してないのです。
そう捉えているから逆に長期化していくのです。
そのことに早く気づいてください。
より良くなるというのは、抱えている苦悩が和らぎ、消えていくということです。
その苦悩とは、できないことを知られてしまう「恥辱感」の恐怖、自分がもぬけの殻
という「空虚感」を周囲から悟られることの恐怖、何をしてもうまくいかないという
「無力感」です。
つまり絶望感です。
希望をもって今を一所懸命生きていけないのは、将来を絶望視しているからです。
これからを生きていくことに意味を見出せないからです。
「働かないと食べていけないだろう!」という説得は、「食べていく」つまり生きていく
ことに期待している前提で意味をなすものです。
これからに期待を抱けないひき者らにとっては、必要性が感じられませんし、それよりも
実際食べていけているのですから。
原因は知る必要はないは大ウソ
ひきこもり(不登校)を招いた原因を知ることが解決のための必要条件ではないと言っている
支援者もおられます。
行政の窓口で配布される家族向けのパンフレットにも、「原因よりも現状を改善することが
大切」といった内容が掲載されていたりもします。
原因も分からずして、何をどう解決するつもりでいるのでしょうか?
不思議でなりません。
だから、就労支援を対策に掲げるのでしょうね。
痛み、苦しみを伴う原因に寄り添うこともなく、ただ「けしからん!」と社会参加を勧めて
も、崖っぷちで背中を押すようなものです。
足を踏ん張り背中を向け、さらに心を閉ざします。
絶望感をぬぐいさるためには、親、家族の苦悩への理解、共感が最も必要なのです。
嘆きの対象となる「困った子」ではなく、困りごとを抱えているわが子なのですから。