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清野充典

東洋医学と西洋医学の融合を目指す鍼灸師・柔道整復師

清野充典(せいのみつのり) / 鍼灸師

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コラム

東洋医学とは何か 84  薬草治療(漢方薬治療)とは何か(6) 日本の薬草治療は中国の漢代から隋・唐時代の治療法が伝入 701年に誕生した医師が学んだ教科に『傷寒論』は含まれず鍼灸治療の理論が主体

2022年10月27日 公開 / 2022年12月5日更新

テーマ:東洋医学とは何か

コラムカテゴリ:医療・病院

コラムキーワード: 東洋医学鍼灸治療漢方薬 効果

◇東洋医学とは何か 84  薬草治療(漢方薬治療)とは何か(6) 日本の薬草治療は中国の漢代から隋・唐時代の治療法が伝入 701年に誕生した医師が学んだ教科に『傷寒論』は含まれず鍼灸治療の理論が主体◇

 こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。 

 清野鍼灸整骨院HP  http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆

 私は、「鍼灸を国民医療」にする事を目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。

 東洋医学は、当院で行っている鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療、養正治療と薬草治療で構成されています。79回目から、薬草治療について書き始めました。私は、薬を扱う事が出来る医師や薬剤師ではありませんので、薬草(生薬)に関する歴史(医学史)研究をしている立場で、書いています。
 79回は、日本における薬草治療の現状について書きました。日本では、1884年(明治時代)に薬草治療が途絶え、1985年に漢方薬が保険調剤となったものの医学部で薬草(漢方薬)の教育がされるようになったのは2000年以降だという話です。つまり、薬草治療を行ってきた歴史は長いものの、近年においては、教育が十分行われておらず、研究も進んでいないため、江戸時代末期の様な高い水準の医療にはなっていないという話でした。
 80回は、中国における薬草治療の現状について書きました。中国では、中華民国建国時の1912年に薬草治療が途絶えましたが、中華人民共和国建国(1949年)5年後の1954年に、43年ぶりに国家医療となりました。1644年の清朝に途絶えた按摩治療、1801年には消滅していた接骨治療、1822年に禁じられた鍼灸治療も、中国伝統医術(TCM)として復権したという話です。
 81回は、生薬の組み合わせが天文学的であり、未だ使いこなすには至っていないという話でした。
 82回は、処方した薬草が適応となる病態の把握方法が未体系なため西洋医学に基づく病名に利用するのは困難だという話でした。
 83回は、薬草治療を行う際の病態把握に用いた言葉は、鍼灸治療を行う際の用語だったため、同じ用語でも、定義が異なっているおり、相互理解は難しいという話でした。

 中国医学では、1に鍼治療、2に灸治療、3に薬草治療という考えがありますが、灸治療は唐代にはすでにあまり行われておらず、鍼治療も10分の1程度で、殆ど薬草治療が行われていました。漢の時代に整備された薬草治療は、長い間、中国国内で主要な医療です。
 しかしながら、中国の薬草治療は、欧米では食品扱いであり、世界的には医療と認められているとは言えません。中国、韓国や日本で使用されていますが、まだまだ十分に研究されておらず、治療法として確立されていません。医師の立場からすると、病気に対する治療法が確立されていないので、薬の選択が出来ないと言えます。

 これまでは、中国国内での話をして来ました。今回からは、日本における薬草治療(漢方薬)についてです。日本では、1884年(明治時代)に薬草治療が途絶え、2000年に医学部で薬草(漢方薬)の教育がされるようになったことを東洋医学とは何か79で紹介しましたが、明治期以前では、薬草治療は医療の中心でした。今回は、平安時代までの話です。

 前回の83話では、中国で薬草治療をする際の病態把握について、一気に書きました。そのため、ものすごく長くなってしまい、理解する事が困難になった様でしたが、これから日本の事を書くにあたり、中国の歴史がとても大きく関与するので、一話で完結させました。日本の場合は、医療の転機となっている①古代から室町時代まで ②江戸時代 ③明治時代以降の3区分に分けて書くことと致します。特に江戸時代は複雑ですので、2~3回に分けないと、頭の中がこんがらがってしまうと思うので、分量を考え乍ら紹介します。89話までには、薬草治療の話を終える予定です。

 日本の医療制度は、65話で書きましたが、わが国最初の医療制度は、飛鳥時代(592年~710年)の701年に制定された『大宝律令(たいほうりつりょう)』の中にある「医疾令(いしつれい)」です。飛鳥時代の医療制度は、わが国最初の医制(いせい)です。中国の唐で行われていた医療制度を模倣した「医疾令」は、全部で27条あります。鎌倉時代まで数百年の間ほぼ踏襲された制度です。その内容を見ると、宮内省にある典薬寮で医療に携わる人を、管理・教育していました。「職員令(しきいんりょう)」によると、職責は23に及びます。責任者は典薬頭です。主な構成は以下の通りです。
医師  10人
医博士 1人
医生  40人
針師  5人
針博士 1人
針生  20人
按摩師 2人
按摩博士1人
按摩生 10人
 医師は、諸種の疾病を診察し治療する役割です。体療(内科)、創腫(外科)、少小(小児科)、目(眼科)、歯(歯科)や角法(採血法・刺絡)等の診療を行いました。角法とは悪血を取り除く治療のことで、現代では瘀血治療(刺絡治療(鍼治療の一つ)・瘀血吸圧治療・抜缶治療・蛭治療等)のことを指します。
 ちなみに、針師は、創腫を治療する役割です。創腫は、唐では瘡腫のことを言い、外科学を指します。「医疾令」第六条には、「針灸を合わせた方法を習うべきである」と書いてあります。針師は、鍼灸術を学び、外科治療を行いました。この時代の針師業務は、現在、はり師、きゅう師、外科医師が担っています。
 また、按摩師は、骨折や脱臼や靭帯損傷を治療し、瀉血や包帯術を行っていました。また、あん摩や導引も行っていました。現代では、整形外科治療、あん摩治療や運動療法等のことを指します。この時代の按摩師業務は、現在、柔道整復師、あん摩マツサージ指圧師、整形外科医師が担っています。
 医生40人のうち、それぞれ20人ずつに分け、その中の12人は内科、3人が外科、3人が小児科、2人は耳鼻咽喉歯科を学ぶこととされています。医生の修業年限は7年ですが、外科と小児科は5年、耳鼻咽喉歯科は4年で医師と認めました。内科を学ぶ24人の医生が7年ということになります。針生20人は、医生とともに7年です。按摩生・呪禁生は3年でした。医師・針師・按摩師の中でそれぞれ優秀な人を1人博士とし、医生・針生・按摩生の教育を行いました。医博士、針博士、按摩博士は、それぞれ国の医療を担うトップです。ちなみに、国宝の『医心方』を書いた丹波康頼は、針博士でした。(詳しくは東洋医学とは何か65を参照ください)
 『大宝律令』にある医師は、薬草治療を行いました。今から、1300年前には、国家医療として薬草治療をしていたことがわかります。日本には、3~4世紀頃から朝鮮半島の医術が伝来し、7世紀頃には中国医術が伝来しています。『大宝律令』の中にある「医疾令」は、中国の『周禮(しゅらい)』にかかれている制度を模倣していますので、中国大陸の影響を受けていたことは明らかです。

 中国の薬草治療は、200~210年(後漢末期)頃に張仲景(ちょうちゅうけい)が編纂した『傷寒雑病論』が起点になっている事を書いて来ました。(東洋医学とは何か82・83参照)。それでは、日本ではどうか。中国医術を模倣して来た事は変わりませんが、『傷寒雑病論』は亡逸しており、日本には伝来しませんでした。『傷寒論』や『金匱要略』を入手出来たのは、1600年代です。ここが、日本と中国における大きな違いと言えます。基本となる書物・思想が異なるのですから、薬草治療の発展に大きな違いが出るのは当然です。

 大宝律令が発せられ、奈良・平安時代に、宮内省内の典薬寮で医生が学んでいた教科書は、隋唐医学です。遣隋使や遣唐使が齎したと思われます。ちなみに、聖徳太子が遣わした遣隋使といえば、小野妹子(おののいもこ)が有名です。中学校の歴史の教科書で習ったと思いますが、彼は男性です。
 当時の医生が学んだ書物は、『素問』『針経(霊枢)』『甲乙経』『脈経』『明堂』『集注本草』『小品法』『集験方』等です。
 『素問』『霊枢』は鍼灸治療の基本書ですT東洋医学とは何か83参照)。『甲乙経』『脈経』『明堂』も、鍼灸治療関連書です。
 『甲乙経』は、『素問』『霊枢』をさらに深く掘り下げた本です。
 『明堂』は、孔穴(ツボ)の本です。
 『脈経』は、脈診に関係した本です。
 当時は、脈を診て病態把握する方法でした。ここまでは、医生と針生が学んでいたと思います。
 『集注本草』は本草(生薬)の本です。薬草の特徴を学びます(東洋医学とは何か81参照)。

 『小品法』『集験方』が薬草治療をする際の実際書です。

 『小品法』は、全12巻で陳延之(ちんえんし)の著です。この書物は亡逸しています。著者の詳細や書物の成立年代も不詳です。1985年になって残巻の第一巻が日本で発見されたことにより、研究が進みました。『小品法』の成立年代は、454年から473年の間で、南朝の宋時代に書かれたと推測されています。東洋医学とは何か82で紹介しましたが、この頃の中国で主要な書物は、
 ①成立年代不詳 紀元前・戦国時代 『五十二病方』 著者不明
 ②200~210年(後漢末期)   『傷寒雑病論』 張仲景編纂 散逸  2冊になり後世に伝わる
  1)『傷寒論』  西晋 王叔和(おうしゅくか)収集・整理 その後の時代に追補
  2)『金匱要略』 北宋時代 『傷寒雑病論』の要約本である『金匱玉函要略方』が発見され、宋代に『金匱要略』と命名して刊行 張仲景が書いた『傷寒雑病  論』の一部(『雑病』部)
 ③317年 - 340年頃(東晋)  『肘後備急方』 葛洪(かっこう・281-341年)編纂 
※陶弘景(とうこうけい・456-536)再編
 ④610年(隋代)       『諸病源候論』 単元方(たんげんぽう)編纂      
 ⑤652年(唐代)      『備急千金要方』30巻  孫思邈(そんしばく)編纂 
※医学総論、本草、製薬、婦人科、小児科、内科、外科、外毒、備急、養生、脈診、鍼灸、導引などを網羅している
 ⑥682年(唐代)      『千金翼方』30巻  孫思邈編纂
※『千金要方』を加筆 傷寒論の一部を編入した
 ⑦752 年(唐代)      『外台秘要』  王燾(おうとう)編纂 
※六朝から唐代にかけて用いられていた薬の処方を集めたもの
 ⑧992年(宋代)      『太平聖恵方』100巻目録1巻 計101巻 宋政府編纂
※宋政府が諸家の医方を蒐集して編纂したもの
です。

 『小品法』は、③と④の間くらいの年代です。④『諸病源候論』⑤『備急千金要方』⑥『千金翼方』の本文に、『小品法』の内容が書かれているので、後世の人がこの本を参考にしていたことが分かります。

 この本(『小品法』)の内容は、原文を見れば良いのですが、特徴を知りたい人には、私の恩師である川井正久先生が翻訳した『中国医学の歴史』(傳維康著 東洋学術出版社 1997)がお勧めです。『小品法』は、流行り病(ウイルス性疾患)と他の疾患を明確に区別している点で、中国医学史上最初の見解と考えられます。また、病原菌を「虫」と発想した点も、陳延之が張仲景に続く「着想の豊かさ」を持っていたことを物語っています。第11巻は本草について、第12巻には灸法について書いています。いろいろな病気を分類して病態把握した後、薬草治療や灸治療で対応していたことがわかる書物です。唐代に書かれた⑤『備急千金要方』の巻末文に「医者は皆、張仲景の『傷寒』、陳延之の『小品』を習うべき」だという記述があります。医師必読の書物だったことがわかります。

 『集験方』は、全12巻で、姚僧垣(ようそうえん)の著です。この書物も早くに散逸していますが、⑦『外台秘要』によって、その内容を知ることが出来ます。北周時代(557年~581年)に書かれた書物です。陳延之が書いた『小品法』より100年ほど後の本です。特徴を知りたい人は、『中国医学の歴史』(傳維康著 東洋学術出版社 1997)をご覧ください。姚僧垣は、類まれなる臨床家だったようです。様々な病気を治した経験から、脳卒中等の急性病、糖尿病等の慢性病、中毒、性病、マラリアや流行り病、婦人科疾患や小児科疾患等、現代に通じるありとあらゆる病気の治療法が書いてあるとされています。臨床家にとっては、極めて有用な実用書であったと、考えられます。

 遣隋使や遣唐使たちは、隋や唐時代に編纂される以前の本を持ち帰っていたことがわかります。

 『小品法』と『集験方』には、傷寒(流行り病)のことが書いています。日本の医師たちは、張仲景の書物に触れることなく、最先端の医療を学んでいたことになりますが、肝心の生薬が手に入らなかったため、苦労したことと思います。

 学問体系を考えると、脈診をしながら、まず鍼灸治療を行い、その後に薬草治療をする方法が主体ではなかったかと推測します。日本の飛鳥時代、奈良時代から平安時代は、後漢末期200~210年頃 『傷寒雑病論』が出てくるまでに行われていた中国の診療スタイルに似ていたのではないかと、個人的に思っています。つまり、1に鍼治療、2に灸治療、3に薬草治療という考えです。個人的には、今もそうあるべきだと思っています。

 今回からの内容にご興味がある方は、繰り返し中国国内の歴史(東洋医学とは何か81~83参照)とこれから書いて行く日本の歴史を対比しながらお読み戴きたく思います。

 その後、『医心方』が丹波康頼によって上奏され、教科書となりました。日本の国宝『医心方』30巻は、984年針博士丹波康頼より、朝廷に献上された日本に現存する最古の医学書です。唐代までの中国で行われて来た処方が書かれています。これにより、明確な日本化が進んだと言われていますが、今回の話はこれまでと致します。

 次回は、日本の平安時代末から室町時代における薬草治療(漢方薬治療)の歴史について、紹介したいと思います。

 いかがでしたでしょうか。日本における薬草治療(漢方薬治療)の歴史がお解り頂けたでしょうか。毎回、やさしく、分かりやすく、皆様に漢方についてご理解頂こうと思って書いています。皆様にとって、有意義な時間であることを願っています。いつも、お読み戴き、ありがとうございます。次回85回目も、お付き合いの程を、よろしくお願い致します。100回目(2024年2月)まで、頑張ります。

令和4年(2022年)10月27日(木)
 東京・調布 清野鍼灸整骨院
  院長 清野充典 記

清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在77年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。

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