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東洋医学とは何か 83  薬草治療(漢方薬治療)とは何か(5) 薬草治療における病態把握方法は鍼灸治療を行う方法を転用したため生薬の選択方法としては不適切 新しい病態把握方法の発見もしくは薬理学に基づく処方理論の構築が急務 

清野充典

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テーマ:東洋医学とは何か

◇東洋医学とは何か 83  薬草治療(漢方薬治療)とは何か(5) 薬草治療における病態把握方法は鍼灸治療を行う方法を転用したため生薬の選択方法としては不適切 新しい病態把握方法の発見もしくは薬理学に基づく処方理論の構築が急務 ◇

 こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。 

 清野鍼灸整骨院HP  http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆

 私は、「鍼灸を国民医療」にする事を目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。

 東洋医学は、当院で行っている鍼灸治療、瘀血治療、徒手治療、養正治療と薬草治療で構成されています。79回目から、薬草治療について書き始めました。私は、薬を扱うことが出来る医師や薬剤師ではありませんので、薬草(生薬)に関する歴史(医学史)研究をしている立場で、書いています。
 79回は、日本における薬草治療の現状について書きました。日本では、1884年(明治時代)に薬草治療が途絶え、1985年に漢方薬が保険調剤となったものの医学部で薬草(漢方薬)の教育がされるようになったのは2000年以降だという話です。つまり、薬草治療を行ってきた歴史は長いものの、近年においては、教育が十分行われておらず、研究も進んでいないため、江戸時代末期の様な高い水準の医療にはなっていないという話でした。
 80回は、中国における薬草治療の現状について書きました。中国では、中華民国建国時の1912年に薬草治療が途絶えましたが、中華人民共和国建国(1949年)5年後の1954年に、43年ぶりに国家医療となりました。1644年の清朝に途絶えた按摩治療、1801年には消滅していた接骨治療、1822年に禁じられた鍼灸治療も、中国伝統医術(TCM)として復権したという話です。
 81回は、生薬の組み合わせが天文学的であり、未だ使いこなすには至っていないという話でした。
 82回は、処方した薬草が適応となる病態の把握方法が未体系なため西洋医学に基づく病名に利用するのは困難だという話でした。

 中国医学では、1に鍼治療、2に灸治療、3に薬草治療という考えがありますが、灸治療は唐代にはすでにあまり行われておらず、鍼治療も10分の1程度で、殆ど薬草治療が行われていました。漢の時代に整備された薬草治療は、長い間、中国国内で主要な医療です。
 しかしながら、中国の薬草治療は、欧米では食品扱いであり、世界的には医療と認められているとは言えません。中国、韓国や日本で使用されていますが、まだまだ十分に研究されておらず、治療法として確立されていません。医師の立場からすると、病気に対する治療法が確立されていないので、薬の選択が出来ないと言えます。
 今回は、漢方薬を処方するために、病態をどのように把握しているのかという話です。この話は、核心に迫った内容ですので、やや専門的です。以下に優しく書こうとも、専門的な用語を書かないわけにはいかないので、とても理解できないと思ったら、飛ばし飛ばしご覧になって戴いて結構です。今回は、漢方薬について、私が一番皆様に伝えたかった内容です。ご興味がある人は、楽しんでお読み戴きたく思います。

 病気になった時、医者は病人を見て、どの様な状態かを考えます。その事を、「病態把握(びょうたいはあく)」と言います。病人がどのような病態かを把握する事は、医者がする最初の仕事です。
 見た目に怪我をしていれば、外科の範疇です。出血があり裂傷や火傷をしていれば外科的な処置が必要です。近年、医者には専門性が有ります。この場合は、外科医(整形外科医・形成外科医等含む)が行います。この時に行った病態把握の結果つまり「病名」は、「傷病名」です。医師(外科医)は、傷病名に基づき、治療を行います。骨折、脱臼、捻挫、挫傷(ざしょう・筋肉や腱や靭帯の損傷)や打撲であれば柔道整復師も治療を行います。
 見た目に怪我をしていなければ、内科の範疇です。この場合、内科医が行います。近年、内科は無数の科に分かれています。そのため、総合診療科という科目もあります。からだの外から病気を把握する方法です。西洋医学では、血液検査、尿検査などの検体(けんたい)検査をします。身体の中にある成分を細胞レベルで調べようとする考え方です。科学的と言われる方法です。また、画像検査も発達しています。レントゲンさんが発明したレントゲン検査に始まり、MRI検査や超音波検査など、身体の外から中の様子を把握する方法です。検査方法が多岐に亘っているため、人間ドックという方法まで誕生し、検査のために何日も要します。科学の進歩と言えます。その結果に基づいて行った病態把握の結果つまり病名は、「疾患名」です。医師(内科医)は、疾患名に基づき、治療を行います。主な治療は薬物治療です。医学部で教育を受けていますので、各種検査による病態把握→疾患名決定→薬物治療は、同一のレベルで行われます。
 ここで問題となるのは、
1.疾患名が決定しても治療法は必ずしもない
2.疾患名を決定できない場合は統一した治療法がない
と言う事です。様々な検査により、新しい病気の発見が続いています。疾患名は増える一方ですが、治療法が追い付いているとは言えない状況です。
また、疾患が特定できなければ、症状に対応した薬物治療になる場合があります。それを、随症治療(ずいしょうちりょう)と言います。「症状に従って治療をする」という意味です。頭が痛ければ鎮痛薬、熱が高ければ解熱剤というような治療です。

 随症治療は、東洋医学でも行ってきた方法です。鍼灸治療や薬草治療(漢方薬治療)は、随症治療の歴史でもあります。
鍼灸治療や薬物治療は、「病気」という概念はあっても、「病名」と言う概念を持ちませんでした。基本的に、症状の改善に努めた治療です。楽になれば良い、症状が軽くなれば良いという治療です。
 病態把握する方法は、『黄帝内経素問』や『霊枢』という本に書かれています。この考えは、身体を「陰陽観」「三才観」「五行観」に分類する考え方です。身体の状態を、2方向、3方向、5方向から分析する分類方法を取りました。また、病気になった時、身体のあらゆる場所から病気が出入りしていると考え、その場所を孔穴(こうけつ・ツボの事)として捉え、内臓等の働きによって12の道筋に分類しました。「経絡(けいらく)」と言われる考えです。これらの考えは、鍼灸治療をするために生まれた方法です。
 現在行われている治療の分類は、外科治療と内科治療が主です(ここでは産科治療は分類から除外します)。身体の外側から肉体に働きかけ、身体内部の働きを正常な働きへと導く日本の伝統医術である鍼治療、灸治療、薬草治療、整骨治療、按摩治療等は、このどちらでもありません。言い換えれば、外科内科治療です。清野は、発語のしやすさを考え、「内外科治療(ないげかちりょう)」と呼称するのが良いと考えています。つまり、漢方と総称している治療は、内外科治療です。
 患者さんに、鍼灸治療や東洋医学という、何か現代医学と違った医療として捉えられるのではなく、外科治療、内科治療、内外科治療という医療を選択してもらうのが、患者さんのために良いと思っています。この事は、「西洋医療が主で東洋医療が従である」という潜在的な意識を持っている、医療従事者や国民の考えを、転換して戴くための方法ではないかと考えています。

 さて、長くなりましたが、ここからが今回のコラムの本題です。

 では、薬草治療(漢方薬治療)をする時の病態把握方法はどの様なものなのかと言う事です。

 薬草治療は、生薬(本草)を組み合わせる治療です(東洋医学とは何か81参照)。本草という言葉が初めて出てくるのは、『漢書(かんじょ)』「郊祀志(こうしし)」です。班固(はんこ)が76~83年頃に書いたとされます。岡西為人(おかにしためと)の『本草概説』(創元社・1977)によると、「本草という言葉は、漢の武帝(前140年~前87年)から成帝(前32年~前7年)の約100年の間に出来た新語」のようです。
 生薬(本草)を組み合わせる方法は、『黄帝内経素問』や『霊枢』が書かれた漢代以前より行われていましたが、200~210年(後漢末期)頃に張仲景(ちょうちゅうけい)が編纂した『傷寒雑病論』には、本草という文字は出て来ません。張仲景が生きていた後漢時代には、『神農本草経』という書名に見られるように、生薬の言い方は神様と並列で、医療と神秘的な面が分離していなかったため、統一した名称もなかったと考えられます。
 決まった処方に薬名を付けて服用させるようになったのは、張仲景が編纂した『傷寒雑病論』という書物が起点になっています(東洋医学とは何か82参照)。張仲景が考えた病態分析方法が、今も基本になっています。
 彼は、「三陰三陽(さんいんさんよう)」という考えを重視しています。これは、『黄帝内経素問』「熱論」を参考にした考え方です。当時は、鍼灸治療を行う時の病態把握方法しかなかったので、その考え方を発展させたと思われます。「熱論」では、「傷寒(流行り病)は、初日に太陽が病になり、2日目に陽明の病になり、3日目に少陽の病、4日目に太陰の病、5日目に少陰の病、6日目に厥陰の病になり、三陰三陽、五蔵六府が悪くなれば死ぬ」と言っています。
この話は、とても専門的で、鍼灸治療の勉強をしていなければ全く分からない内容です。
 三陽 足太陽膀胱経 手太陽小腸経
    足陽明胃経  手陽明大腸経
    足少陽胆経  手少陽三焦経
 三陰 足太陰脾経  手太陰肺経
    足少陰腎経  手少陰心経
    足厥陰肝経  手厥陰心包経
 上記は、12の経絡を表す時の名前です。「三陽」にある「足太陽膀胱経」は足・太陽・膀胱・経という4つの言葉が1つになった名称です。
 足 道筋が足から始まる意味です 手が付くと手から始まります
 太陽 陰陽観に基づいた言葉で「陽の働き」を意味します 太いはとても多いという意味です。原文では「巨陽」と書かれています。「巨」は多いという意味です。
 膀胱 膀胱と言う臓器に関係しているという意味です。
 経 縦の流れと意味します。身体の足から始まり頭まで横断します。
 全部の説明は割愛しますが、同様に考えていただきたく思います。張仲景は、この4つの内、太陽・陽明・少陽の三陽と太陰・少陰・厥陰の三陰という用語に着目して考えたのだと思われます。12の経絡は、鍼灸治療を行う際の病態把握に必要です。12の経絡が変動した時病気が現れます。変動した経絡を考え、異常な反応を示す孔穴(ツボ)に治療する事によって病気は治ります。経絡の異常つまり病気は、『霊枢』第十経脈篇に詳しく書かれています。
 しかしながら、生薬を組み合わせる方法つまり処方を考える際、この理論は基本的に必要ありません。病態把握するために代用した用語と考えられます。
 
 「熱論」では、「7日目に太陽の病が少し癒え、8日目には陽明の病、9日目には少陽の病、10日目には太陰の病、11日目には少陰の病、12日目には厥陰の病がそれぞれ衰え、病が治る」と言っています。張仲景は、太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰の病が『霊枢』第十経脈篇に書かれている事を踏まえ、『素問』「熱論」の経時的な視点に着目したのだろうと考えます。しかしながら、『傷寒論』本文に書かれている病態は、ところどころ経脈篇と似通っているところはあるものの、基本的には違う視点で書かれています。『素問』『霊枢』で用いている太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰と『傷寒論』で用いている太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰は、概念が異なっている事が分かります。
 
 張仲景が書いた『傷寒雑病論』は現存しません。現在残っている『傷寒論』本文は、出版された時代によって内容が異なっています。底本(ていほん・最も信頼できる版本の事)は、明代に書かれた「趙開美本」とされていますが、分かりやすく分類した例を示すため、保険調剤の礎を築いた大塚敬節が書いた『傷寒論解説』(創元社・1966年)を基に傷寒論本文を分類すると、以下のようになります。
 太陽病 上篇 17章
 太陽病 中篇 52章
 太陽病 下篇 29章
 陽明病篇   28章
 少陽病篇   4章
 太陰病篇   4章
 少陰病    24章
 厥陰病    14章
その他10章 合計182章あります。「三陰三陽」の病は日本での呼称で、1960年に出来た中医学(TCM・中国伝統医学)では「六経」と呼称しています。
 本文の内容を細分して解釈する方法は、歴代の医家によって異なっていますが、大塚の分類は、臨床家にとって分かりやすい分類だと思いますので、例に引きました。本文中で、太陽病は98章あります。その内容を見ると、「熱論」でいう発症後1日目の病態を集めた治療法を書いているのではなく、13日目までになっています。張仲景は、太陽病を急性期の病気と捉えたのだろうと推測します。病気を、急性期や慢性期に分類する方法は、近年の事だろうと思いますが、その定義は決まっていません。一般的に、14日目以降は慢性病と捉えますので、張仲景は、急性期と慢性期の病態を臨床的に分けていたのではないかと思います。陽明病も28章あり、太陽病に次いで多く書かれています。急性期から慢性期に移行する病態に対応した処方例を示しています。
 一方、病態が落ち着きを見せる少陽病や太陰病は各4章で少ないのは、移行期の期間が短いからだと思います。臨床家の視点で見ると、良く理解出来ます。少陰病や厥陰病は、慢性期でかつ長期化した病態に対しての処方例ではないかと思われるので、その他の章を合わせると48章になり太陽病の半分近くに相当します。この点も、臨床家として理解出来ますが、鍼灸治療をする際臨床上は急性病の倍以上あると思います。張仲景は69歳で亡くなったので、慢性病を分類する時間がなかったのか、今ほど寿命が長く無かったので、慢性病に対してそんなに書く事がなかったのか、などとつまらぬ事に思いを寄せます。

 張仲景の考え方は、経時的に捉えており病態把握方法としては優れています。薬草に経時的な基準を設けたため、
 急性期に効果が高い ○○○○湯
 慢性期に効果が高い 〇〇〇〇散
 長く患っている場合 ○○○○丸
という処方名で分類したのではないかと考えます(東洋医学とは何か79参照)。
 張仲景は、決まった症状に、決定した処方薬を配当する考えです。今では当たり前の様な手法ですが、当時では画期的な考えです。処方を決定する作業は、生薬を選択する作業です。鍼灸治療をする際は、孔穴(ツボ)を処方(選択)して、治療します。その考えを応用したのではないかと考えます。『傷寒論』の序文には、『素問』『九巻(霊枢)』『八十一難(難経)』『陰陽大論』『胎臚薬録』『平脈弁証』を撰用して作成したと書いています。
 序文は、
1.張仲景が書いた
2.張仲景が前半 王叔和が後半を書いた
3.別な人が書いた
という事を言われていますが、張仲景が生きていた後漢から魏の時代に、医者の基本である『素問』『九巻(霊枢)』『八十一難(難経)』を学んでいない事はないと考えます。
 ※『素問(そもん)』 医学書の総論
 ※『九巻(きゅうかん)』 後に「針経(しんきょう)」と言われ現在は「霊枢(れいすう)」 鍼治療のことが書かれている
 ※『八十一難(はちじゅういちなん)』 後に「難経(なんぎょう)」と言われる 『霊枢』の難解な部分を81篇にわたり解説 鍼治療の専門書
 
 『史記』列伝を見ても、漢の初めは、診察する際「脈診」(みゃくしん・脈を診て病気を判断する)が主であり、治療は鍼灸を主として湯液(薬の治療)は従の立場に置かれていました。鍼灸治療をする際に、時点的観点から孔穴(ツボ)を処方して治療を始める(選穴する)考え方を、湯液治療(薬草治療)に転用し、決定処方として服薬する事を思い付いたと、清野は思っています。漢方薬の大家は沢山いますので、このような事を言うとお叱りを受けるかもしれませんが、、、。

 現代は、薬草治療(漢方薬治療)が主で鍼灸治療を従と捉えている医療従事者が圧倒的に多いと思いますので、歴史を例に取りながら、鍼灸治療の有用性を示すために、様々な事を繰り返し行っています。このコラムを書いている大きな理由の一つです。

 『傷寒論』に対して、このような事を書いている書物や論文はないと思います。清野独自の見解です。私は、経時的観点と時点的観点を入れた鍼灸治療に有効な病態把握方法を考案しました。この方法は、西洋医療・東洋医療全てに利用可能な理論です。今、このコラムに書いている「傷寒論に対する見解」は、その考えに基づいています。私の理論に興味がある方は、10月上旬に日本科学士協会から出版される『応用細胞補完代替医療学』第2巻に、論文(東洋医療と西洋医療を融合するための病態分析法 ―医療現場で治療法を選択する際に 必要な共通の基本思想―)が掲載されます。良かったら、そちらをご参照ください。

 ちなみに、傷寒論の本文中、脈診法を除いた182章には、鍼灸治療の事も書かれています。
太陽病に 「針」1か所(64章)、「刺(鍼の事)」1か所(12章)、「焼針」3か所(17・64・65章)、「灸」1か所(64章)
陽明病に 「温針」1か所(110章)
     「刺(鍼の事)」1か所(114章)※瀉血
少陽病に 「温針」1か所(130章)
合計 鍼治療8か所、灸治療1か所です。大塚敬節は、『宋本傷寒論』を底本にしています。『明趙開美本』を見ると陽明病の2か所に見える本文は、大きく削除されていますので、「温針」や「刺」字はありません。従って、『明趙開美本傷寒論』は、鍼治療6か所、灸治療1か所になります。明の時代には、その文章が衍文だと思ったのでしょう。いずれにしても、傷寒論が書かれた時代は鍼灸治療が主体ですので、当時は急性期に針を焼いて刺す事や腫れた所を瀉血していた事が分かります。急性期から症状が緩やかになると、針を温める事や身体を温める性質がある薬を飲んでいます。私は、急性期に対する灸治療は、発熱している際透熱灸(艾炷(がいしゅ・手で捻った小さな艾)を皮膚上で全て燃やす治療)を行い、解熱して症状が軽くなったら徐々に熱量を少なくして知熱灸(艾炷を皮膚上途中で消し去る治療)を行っています。昔の人が行っていた方法と手法は異なっていますが、基本的な考えは同じであると実感しています。
 
 張仲景の病態を三陰三陽に分類する考えは、後の湯液治療(生薬を処方する治療)を行う医者に多大な影響を及ぼし現在に至ります。その考えは、『黄帝内経素問』「熱論」を参考にしたと言われますが、私は「経時的観点」以外は異なっていると考えます。「熱論」にある「傷寒(流行り病)は、初日に太陽が病になり、2日目に陽明の病になり、3日目に少陽の病、4日目に太陰の病、5日目に少陰の病、6日目に厥陰の病になり、三陰三陽、五蔵六府が悪くなれば死ぬ」という視点は、鍼灸治療を行う時の病態把握方法です。一日おきに身体は違う病態を示す事を言っています。太陽の病は、初日だけです。張仲景は13日間と捉えています。この違いは、「時点的観点」の違いです。

 鍼灸治療は、経時的観点から病態把握をしますが、治療する際は、時点的観点を持ち、その日のその時の状態に対する治療が可能です。そのため、その人の病気(根本的に短時間では変わらない視点での病態名)を表す言葉は必要です(東洋医学には基本的に疾患名の様な病名はない)が、その時の症状に従って治療します。その方法を称して「随症治療」と言われます。患者の身体は、患者の孔穴に鍼治療もしくは灸治療をした瞬間に変化します。一穴一穴を治療する度に状態が変わります。その特長を生かすために、治療中に変化する病態を時点的に把握して行く事が必要です。事細かく把握する事が可能な事から、身体全体を12の経脈に分類し361個所を基本とした全身至る所にある孔穴の反応を確認しながら治療します。
 この時点的な観点は、湯液治療には不得手なところです。毒薬や頓服以外は、直後の変化を確認する事は難しいと言えます。鍼灸治療に比べ、経時的な病態把握にタイムラグがあります。「熱論」の内容は、一日ごとに生じる病態の変化を書いたものですが、『傷寒論』に書かれた三陰三陽は、急性期と慢性期に分類した大雑把な内容と言えます。治療方法の特性が病態把握方法の違いを生んでいます。
 
 『傷寒論』には、太陽や陽明などを含め、『素問』や『霊枢』等に書かれている言葉と同じ用語を用いて異なる病態を表現しているため、誤解が生じ時代が下るに連れてその違いが分かりにくくなり、恣意的な理論展開が蔓延してしまったと思います。その要因となっているのが、病態把握をする際に用いている、用語です。診察は、脈診が主となっている時代ですので、『傷寒論』の巻一は「弁脈法」と「平脈法」になっています。鍼灸治療に用いていた脈診の用語を用い、病態把握の説明をしています。脈には後世24種類あるとされていますが、脈状と病態が整然と整理されており、張仲景の高い見識を知る事が出来ます。唐代の王冰(おうひょう)が書いた『素問次註』の序文に「漢に淳于公あり、魏に張公、華公あり。皆この妙道を知るなり」とあります。張公とは張仲景の事です。代表的な3人の医者の一人に名前が挙げられており、後世高く評価されている事が分かります。
 しかしながら、脈を中心とした病態把握はとても難しく、経験を要するため、後世の人は、その内容を理解するための理論を求めるようになったと考えます。
宋の時代(北宋960-1127、南宋は1127-1279年)に活版印刷技術が発達します。歴代の書物を、活版印刷にして、大量に書物を流通させました。その際、製作工程に関与した林億(りんおく)らは、本の内容の順番を入れ替えたりしました。この事は、一般的に「宋改(そうかい)」と言われています。宋改は、多くの人に学ぶ機会を与えましたが、文字の入力間違いや順番を入れ替えた事により、時代が不明になる、意味が不明になる事を引き起こしました。『黄帝内経素問』は、時代が前後して81篇が編纂されています。そのため、第1篇から順番に読んで行くと疑問を感じる事が良くあります。誰か、時代順に並び直してもらいたいと思っています。それを、恩師である早稲田大学教授渡邊義浩文学博士にぼやいた事があるのですが、それが出来るのは私しかいないという回答を貰いました。嬉しいやら、困ったやらです。このコラムを読んで、「よし私がやろう」という若者の出現を期待します。

 金元時代(1127-1368)には、特異な文化が起こり、医学の面で「金元医学(きんげんいがく)」と呼ばれる変革が起きます(東洋医学とは何か82参照)。
金(1115年 - 1234年)時代の代表的な医者である劉完素(りゅうかんそ・1120-1200)は、激しい感情の変化が熱を発する病気の重要な要因と考え、心臓や腎臓の調整を訴えました。張従正(ちょうじゅうせい・1156-1228)は、「汗・吐・下(かん・と・げ)」という発汗・嘔吐・瀉下の三法を行う「攻邪論」を唱え、病毒の排出を図るため、下剤を多く用いました。元(1271年 - 1368年)時代の代表的な医者である李杲(りこう・1180-1228)は、脾と胃を補う事が大切とする「脾胃論」を唱え、「補中益気湯」を創製しました。朱震亨(しゅしんこう・1281-1358)は、「滋陰降火湯」を考案し、劉完素、張従正、李杲の考えを取り入れた上で、中庸(ちゅうよう)つまり「程よさ」を保持する事の重要性を説きました。4人の考えは、鍼灸治療にも影響を与えています。
 
 しかしながら、病態把握する考え方は、基本的に変化はありませんでした。科挙制度を中心とした儒学中心の学問体制が変わらなかったように、医学の面においても陰陽論を中心とした考え方に変化はなく、むしろ恣意的な理論展開が横行しました。現在は、病を判断する際、「三陰三陽」「気血水)」「脈診」が中心です。その分類は、「陰陽」「虚実」「寒熱」という考えで主に行っています。いずれも恣意的な理論で、明確な考えに基づいていません。しかも、その考えに基づき導き出された薬は、経験によります。病態把握する方法と生薬の選択に結び付いていません。病態把握をする方法は、鍼灸治療の考えを転用したものですが、孔穴を処方するための病態把握方法ですので、生薬を処方する病態把握方法を考え出す必要があります。中国医学が中国医学で途絶えた根本的な理由を解消しない限り(東洋医学とは何か81参照)、薬草治療(漢方薬治療)の発展は望めないと、医史学の立場から考えます。個人的には、新しい病態把握方法の発見もしくは薬理学に基づく処方理論の構築が急務ではないかと考えます。 
 
 鍼灸治療と薬草治療(漢方薬治療)は、病態把握している時に用いている用語は、漢字で見ると同じですが、用い方は異なっている点をまず理解する必要があります。そのため、日本では、漢方医学である鍼灸治療と漢方薬治療を論議するとき、共通用語を作り上げないと、同じ内容を話しているつもりでも齟齬が生じている事を理解しなければなりません。この視点が、現在学会を含む医療界全体に全くないと思っています。
現在の日本では、脈診を中心とした病態把握をして生薬を処方する診療体制にはなっていません。医学部で殆ど教育が行われていないため、大塚敬節先生が考えた西洋医学の疾患に照らし合わせた投薬が主になっていると考えます。また、患者の病態を把握する方法が、日本の場合流派によって異なります。

 次回は、日本における薬草治療(漢方薬治療)の歴史について、紹介したいと思います。

 いかがでしたでしょうか。薬草治療(漢方薬治療)と鍼灸治療との関係を、理解出来ましたでしょうか。頑張って、やさしく、分かりやすく書こうと思いましたが、思ったより長文になり、やや難解さが増したかもしれません。この文章を読んで戴いているという事は、ここまでカーソルを回して戴いたという事ですよね。お読み戴き、ありがとうございました。次回84回目も、お付き合いの程を、よろしくお願い致します。100回目(2024年2月)まで、頑張ります。

令和4年(2022年)9月25日(日)
 東京・調布 清野鍼灸整骨院
  院長 清野充典 記

清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在77年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。

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清野充典(鍼灸師)

清野鍼灸整骨院

 患者さんと後進のために鍼灸を極めるべく、臨床現場と研究活動に全精力を注ぎこんでいます。西洋医学の融合、診療方法の体系化で、鍼灸の高い成果を導いています。論文発表や海外での鍼灸師育成の実績も多数。

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