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清野充典

東洋医学と西洋医学の融合を目指す鍼灸師・柔道整復師

清野充典(せいのみつのり) / 鍼灸師

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コラム

東洋医学とは何か 73  中国の新しい伝統医術である中医学(TCM)は 日本の鍼灸技術を導入して1960年に誕生しました 現在鍼技術は日本のごく一部の技法 灸技術は一つの方法に限定された施術で行っています

2021年11月27日 公開 / 2022年9月6日更新

テーマ:東洋医学とは何か

コラムカテゴリ:医療・病院

コラムキーワード: 東洋医学鍼灸治療

◇東洋医学とは何か 73  中国の新しい伝統医術である中医学(TCM)は 日本の鍼灸技術を導入して1960年に誕生しました 現在鍼技術は日本のごく一部の技法 灸技術は一つの方法に限定された施術で行っています◇

 こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。 

 清野鍼灸整骨院HP  http://seino-1987.jp/

◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆

 私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。

 今回は、「鍼灸治療」の話9回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療、68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、69は明治時代の医療制度制定について、70は中国における太古から1960年頃までについて、71は中国で1960年に誕生した中医学(TCM)成立までの経緯について、72回目は中医学(TCM)とは何かについてでした。73回目は、中国に伝わった日本の鍼灸技術が、どの様に伝承されているかです。

 中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われて来ました。1822年に、清王朝の道光帝は、侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。

 中国人は、鍼灸医術の復興を目指し、日本の医術を学びに来ます。その中心人物は、1934年から1935年にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査した承淡安(しょうたんあん)です。彼は、1929年に設立された東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、終了時には日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取っています。中国に帰った後、日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。異なっていたのは、『黄帝内経』等の古典を学ぶこと位だったと言われています。中国での教育が日本と齟齬が無くなったのは、この頃からだと考えられます。

 1956年になり、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が出来、鍼灸医術は、正式に国家医術として復活しました。初代校長となった承淡安の教育方針は、その後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になりました。南京中医学院が出来た頃、鍼灸学の教材は5種類ありました。まだ、決まった教育方針がなかった時代です。承淡安は、1931年に著した『中国鍼灸治療学』を主に用いていました。1957年に承淡安が亡くなった後、彼の弟子たちが『鍼灸学』を出版し、1960年にそれを基として出版された『針灸学講義』が、中医学院の第1版統一教材です。ここまでは、承淡安の考えです。
 その後、一冊の内容だった鍼灸学を4つに分割した教材が、人民衛生出版社から出版されました。
『鍼灸学(一)経絡学説』(1962年2月)
『鍼灸学(二)腧穴説』(1962年12月)
『鍼灸学(三)刺灸学』(1963年12月)
『鍼灸学(四)治療学』(1965年3月)
1974年に、この4冊がまとめられ、『鍼灸学』として人民衛生出版社から出版されました。
『鍼灸学(四)治療学』は、承淡安の弟子たちが書いた本ですが、この内容は、理論と治療方法が一致していません。今の中医学における特徴とされる「弁証論治(べんしょうろんち)」です。その方式を構築したのは楊長森(よう・ちょうしん、1928年生)です。楊長森は1985年に『鍼灸治療学』第5版を主編していますが、今なお解決出来ていません。(その理由は「東洋医学とは何か72」に書いています)

 楊長森は、湯液(薬物治療)の考えを鍼灸治療の治療分析に組み込みました。薬物は体の中から鍼灸は体の外から直しますので、理論上同じように思えても治療に反映する事は困難です。「弁証論治」の考えで治療方針を立てている人は、たとえ治療の効果を出せているとしても、それは個々人の経験や技量に因るもので、この学問の有用性を示しているとは言えないと考えています。私は、大学で中医学を学びましたが、昔からも今も、この考えは一貫しています。弁証論治を押し進めている人は、鍼灸医学を停滞させていると考えています。

 私の考えと同様に、弁証論治を否定する考えを持っている人は、中国国内にもいます。文献学に造詣が深い李鼎(り・てい、1929年生)は、弁証論治を否定した上で、「病位を重視し、経脈を明らかにして、部位(頭・体幹・四肢)に分けて経穴を特定して治療する」考えを持っています(1)。
 李鼎は、中国で最初(1960年)に鍼灸学部が出来た上海中医学院(現上海中医薬大学)の先生です。承淡安(1899-1957)を知る重鎮の一人と言えます。上海中医学院は、私が最初(1986年)に中国を訪れ留学した学校です。李先生より直接指導を受けた事はありませんが、中医学の治療学を国内で真っ向から否定出来る人がいる事は、鍼灸界にとって明るい希望です。楊長森と同世代(1歳違い)だという事もあると思っています。彼の思想に共通するところはあるのですが、実際に治療する際の方法論が異なっています。それに関しては、後日公表いたします。

 承淡安は、江蘇省中医進修学校の第1期中医研修班修了生を、40名以上教師として北京中医学院へ派遣しました。上海中医学院は、江蘇省中医進修学校へ教師を派遣して、学術交流しました。南京、北京と上海の中医学院が、教科書作りの母体となりました。李鼎先生はその中の一人です。南京が主体となって教科書を作り、上海がそれを発展させて行ったと言えます。

 承淡安の死後、弟子たちが次第に主たる指導者になって行き、1989年の承淡安生誕90周年に、「澄江鍼灸学派」が形成されました。「澄江(ちょうこう)」とは、承淡安が生まれた「江陰(こういん)」地域の別名です。楊長森もそのメンバーの一人です。2011年3月には、南京中医薬大学に「澄江鍼灸学派研究センター」が出来、10月に澄江鍼灸学派第1回学術検討会が開催されました。2012年に、澄江鍼灸学派伝承工作室は、国家中医薬管理局の第1回全国第1期中医学術流派伝承工作室に選ばれました。
 一見、国家が認めたという印象ですが、流派と認定している事は、将来的な発展を示唆します。しかしながら、この後、新たな学派が誕生したとは思えず、現状はこの時と変わっていないように見えます。

 澄江学派の主な学術思想は、
1.臨床における治療効果を起点とした鍼灸学術思想を提唱した
2.経絡理論に依拠した鍼灸臨床の実践を際立たせた
3.刺鍼における操作手技を重視し、得気を要とすることを強調した
4.艾灸療法を提唱し、艾灸の力を広げ効果を強める事を強調した
※南京中医薬大学第二臨床医学院副院長 張建斌作成(2015年)(2)
です。承淡安は、多くの弟子を育てましたので、彼の功績は大きいと言えます。

1の学術思想においては、民間医療と位置付けられた中国国内において、医学・医療としての地位まで押し上げた功績があると思います。彼は、鍼灸を科学化する事に興味を持っていました。近年の中医師が行う学会発表を見ても、現代医学に基づいた解釈をしようという姿勢は見られます。しかしながら、未だに古典的な解釈で論理を展開している事が圧倒的に多く、世界的に見ると、中医師は医学者と見られていません。
2の経絡理論については、古典を掘り起こし、系統立てた功績があります。高い臨床成績を誇る日本ですが、理論構築を置き去りにして来た側面があるため、中医学の経絡に関する教科書は、学ぶべき所があります。
3の刺鍼の操作技術は、日本と中国において、もっとも異なる点です。針を刺した後、響きを与える事(得気・とっき)が、治療効果を出すために一番有効な方法だという考えです。日本人は、この響きをあまり好みません。中国人も最近回避するようになっ来た印象ですが、未だに体内に刺入してから、激しく針を動かす技法を用いる人がほとんどです。承淡安は、当初2種類の方法を提唱しました。その後4種類になり、最後は日本の方法を取り入れた8種類を教えています(日本では、杉山和一の96種類を柳谷素霊が24種類に集約し、その後18種類に修正しました。現在鍼灸学校では18種類が教育されています)。しかしながら、現在は、最初の1種類と日本の1種類を組み合わせた技法で行っている先生が圧倒的に多い印象です。この点については、次回詳細を書きます。
4の艾灸療法とは、お灸治療の事です。日本では、艾を手に持ち、手で撚って小さく捻り、火を付けた後、熱の調節をします。承淡安は、この方法に感動し、灸治療の重要性を強調しました。しかしながら、現在、この方法を行っている先生は見当たらず、艾を紙で束ねて火を付け、皮膚面から離した状態で温める方法(棒灸)が一般的です。日本で行っている沢山の方法の中で、一つの方法しか行っていないと言えます。この事に関しては、鍼治療を書いた後に、詳細を書く予定です。

 承淡安が伝えたかった事は、骨抜きになった印象を私は持っています。
 
参考文献
(1)「上海中医薬大学李鼎先生に聞く 鍼灸教材の変遷と弁証論治の鍼」、『中医臨床』、第三十五巻第二号(通巻一三七号)、120-127、東洋学術出版社
(2)「南京中医薬大学張建斌先生に聞く 承淡安と澄江学派が現代中医鍼灸に与えた影響」『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)、136-147、東洋学術出版社

 (つづく)

※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
 中国では、「針」以外用いません。
 日本では、「鍼」を用いています。
 鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
 清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
 鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
 本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。   

令和3年(2021年)11月27日(土)
 東京・調布 清野鍼灸整骨院
  院長 清野充典 記

清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。                

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