東洋医学とは何か 78 現在中国伝統医術(TCM)では灸治療が殆ど行われていません 日本の灸治療は様々な疾病に対応可能な灸妙・灸温・灸痛を重視する医術です 手で艾を小さく捻る手法は日本人以外殆ど行っていません
◇東洋医学とは何か 77 灸治療は中国から伝来し日本で開花しました 日本の灸治療は重篤な疾病に対応可能な灸温・灸妙・灸痛を重視する医術です 中国では漢代以降灸治療があまり行われなくなり中国伝統医術(TCM)ではごく一部の方法に留まっています◇
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にする事を目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話12回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」
65は日本の太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、
66は日本の江戸時代に入る頃までの鍼治療、
67は日本の江戸時代に入る頃までの灸治療、
68は日本の江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、
69は日本の明治時代の医療制度制定について、
70は中国における太古から1960年頃までについて、
71は中国で1960年に誕生した中医学(TCM)成立までの経緯について、
72は中医学(TCM)とは何かについて、
73は中国に伝わった日本の鍼灸技術がどの様に教育されているかについて、
74は中国で行っている鍼術の技法について、
75中国で取り入れた日本の鍼術についてでした。
76回目は、中国伝統医術(TCM)を作った承淡安の鍼術に対する考え方についてです。
77回目は、日本や中国で行われている灸治療についてです。
74~76は、内容がとても専門的でした。難しい事を、如何にわかりやすく簡単に伝えるか、毎回そうなのですが、今回はより一層その事に注意して書き進めます。
私がこのコラムを書いているのは、東洋医学の啓蒙と東洋医療の普及が目的です。鍼灸治療は、薬物療法に代わる医療であり外科治療を回避できる可能性がある医療だからです。しかしながら、いまだ鍼灸治療に対する評価は低く、薬物療法と併用して鍼灸治療を行えば良くなるかもしれないという考えを持つ医療関係者や患者さんが大半です。
その理由は、鍼灸治療を単独に行った方が改善できる病態と併用する必要がある病態を明確にする作業が行われていないからです。私は、全ての病気・疾病に対して治療を行ったわけではありませんが、40年に及ぶ臨床経験から、鍼灸治療を単独で行った方が薬物治療を併用するよりもはるかに早く改善する事を数多く経験して来ました。一人でも多くの方に、鍼灸治療の実力を知って戴きたいと考えています。
一方、鍼灸治療は治療を行う先生に技量の差が大きくある為、本来の治療効力を実感出来ていない患者さんも数多くいます。また、中国が一番進んでいて、日本の治療技術は低いレベルにあると思っている日本国民に、そうではないという事を知って戴きたいと思って、書いています。
日本の若い鍼灸師や世界各地で鍼灸治療を行っている医者たちに、歴史を知って戴き、理想的な医療環境を世界中の皆さんと考える機会になれば良いという思いもあり、コラムを連載しています。最近は、ご覧戴く方が、だんだん増え、前回のコラムは、500人を超える方がお読み戴いているようです。お付き合い戴いている皆様に深く感謝申し上げます。
(ここから先は前回と同じ内容です 初めてこのコラムをご覧の方はお読みください)
中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われて来ました。1822年に、清王朝の道光帝は、侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。
中国人は、鍼灸医術の復興を目指し、日本の医術を学びに来ます。その中心人物は、1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査した承淡安(しょうたんあん)です。彼は、東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取りました。中国に帰った後、日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。
1956年になり、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が出来、鍼灸医術は、正式に国家医術として復活しました。初代校長となった承淡安の教育方針は、その後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になりました。
(今回のコラムはここからが新しい内容です)
承淡安は、日本に滞在中、日本の灸治療に強い影響を受けました。彼は、多くの施灸所で自ら灸治療を体験しましたが、帰国時期を半月遅らせるほど施灸所に通いました。帰国後、日記に「灸療師がいる専門の施灸所があった」事に対する印象を記しています。承淡安は、艾灸療法(がいきゅうりょうほう)を提唱し、艾灸の力を広げ、効果を強める事を提起しました。その事は、澄江鍼灸学派※1の主な学術思想にもなっています。
※1 澄江鍼灸学派…1989年の承淡安生誕90周年に誕生した学派。「澄江(ちょうこう)」とは、承淡安が生まれた「江陰(こういん)」地域の別名。詳細は、「東洋医学とは何か」73参照。
承淡安は、日本の灸治療をベースに、艾灸治療(がいきゅうちりょう)の構築を試みます。艾灸治療とは、艾を手で小さく捻り線香で火を付ける方法です。当時の中国では、行っていませんでした。承淡安が考えた艾灸治療は、日本のきゅう師が見ればすぐ理解できる内容です。しかしながら、日本で行われている灸治療には、驚くほど固有名詞がありません。承淡安は、日本の灸治療を分析し、固有名詞を付け、明確に治療法を構築しています。短い期間の留学であったにもかかわらず、日本の灸治療をここまで分析している事に驚きです。その方法をこれから紹介していきますが、残念な事に現在の中国ではその殆どが行われていません。わずかに、棒灸と言われる方法を行っている程度に留まっています。そのため、中国伝統医術(TCM)の灸治療効果は、日本伝統医術(TJM)に比べると10%にも満たないと考えています。
日本の灸治療は、手で艾(もぐさ)を捻ります。小さく捻った艾を艾炷(がいしゅ)と言います。艾炷を皮膚の上に置き、線香で火を付けます。その際、全部燃やす方法と途中で消す方法があります。この方法を、
A.有痕灸(ゆうこんきゅう)
B.無痕灸(むこんきゅう)
と言います。皮膚にお灸の痕が残るか残らないかという視点での分類方法です。別な視点では、直接灸・間接灸という言い方をします。皮膚に直接灸を据(す)えるか間接的に据えるかの違いから生まれた言葉です。臨床家は、後者で伝え合うのが一般的です。
艾炷を作る灸治療は、日本で独自に発展した方法です。世界でも日本人のみが行っていると言えます。多くの日本人が、世界中で行っていますが、それをまねて行うのは難しいようです。
お灸の痕が残る方法である有痕灸は
1.打膿灸(だのうきゅう)
2.焦灼灸(しょうしゃくきゅう)
3.透熱灸(とうねつきゅう)
という分類をしています。
1.打膿灸の説明
母指頭大以上の艾炷を、1か所に1~3壮施灸し、化膿を促して排膿を持続させる方法。下腿の潰瘍、痔のかゆみ、疥癬などに用います。
2.焦灼灸の説明
施灸部の組織や細胞を焼き切り破壊してしまう方法。イボやタコなどに用います。
3.透熱灸の説明
艾炷を全部燃やす方法。最も代表的な施灸方法です。熱を体内に浸透させる方法という意味があります。艾炷は、全部燃やさず途中で消しても、熱は浸透します。その方法を、「知熱灸」と言います。有痕灸にも無痕灸にもなりうる方法です。日本では、多くの鍼灸師が行っている治療法です。この方法は、様々な疾病に対応できる医術です。透熱灸の技術を修得してこそ、薬物療法に代わる医療である灸治療が行える「きゅう師」であると言えます。しかしながら、透熱灸を具体的に行う際、その医術を分かり易く説明する用語はありません。
お灸の痕が残らない方法である無痕灸は、
1.隔物灸
2.温灸
という分類をしています。
1.隔物灸の説明
艾炷と皮膚の間に物を置いて艾を据える方法。無痕灸の一つである隔物灸は、艾と皮膚の間に物を挟むことから出来た言葉です。間に挟む物体によって呼び名が異なります。生薑(姜)(ショウキョウ・しょうが)、蒜(サン・のびる)、韮(キュウ・にら)、杏仁(アンニン)の切片(3mm~2㎝)またはすり潰して泥状とした物(3mm~1㎝)を皮膚上に載せ、その上に艾を置いて燃やす方法です。味噌や塩を用いる方法もあります。流派により、艾の大きさはさまざまです。
無痕灸と言っても、痕が残る方法が中にはあります。国民に認知されている灸治療の一つに「千年灸」があります。これは「台座灸」と言われる方法です。台座の上に艾を置いているので、隔物灸です。無痕灸の一種ですが、熱さを我慢していると痕が残る事もあります。つまり、皮膚が焼けます。皮膚の丈夫さや知覚の過敏さにより無痕灸の方法を用いても有痕灸になる一例です。それぞれを行う方法に、慣用名はありますが、正式な名称はありません。
2.温灸の説明
艾を皮膚から離した位置において温める方法。温灸は、火が付いた艾を持ち手で熱の加減を操作して熱を与えるか、針の頭(針柄)に艾を付け、火を付けて暖かい熱(輻射熱)を感じるようにする方法があります。また、いろいろな「器具」を使って温める方法があります。歴史的に見れば、中国においては、道具の開発がお灸の歴史という側面がありました。日本でも、様々な器具が開発されています。近年は、電気を使った器具の開発も盛んです。電子温灸器の類です。赤外線の様な光線療法も、温灸の範疇と言えます。どちらの病態も、特定の病気に効果を発揮します。
現在の教科書では、その他の分類があります。
C.その他
現在、その他に分類している灸治療は、柳谷素霊の著作を見ると、無痕灸に分類されています。その方法は、隔物灸です。承淡安が学んだ頃は、隔物灸という言い方はしていなかったと思います。以下がその方法です。
1.漆灸(うるしきゅう)
2.水灸(みずきゅう)
3.墨灸(すみきゅう)
4.紅灸(べにきゅう)
5.油灸(あぶらきゅう)
この方法は、材料の調達や準備および後始末が大変です。近年、鍼灸学校では、それ以外の方法を選択して教えています。承淡安は、これら隔物灸の方法を学び、中国に持ち帰った後、大いに利用していますので、1~5の説明は割愛しますが、後ほど少し触れます。
以上の事を纏(まと)めると、日本の灸治療は、
A有痕灸(直接灸)
1.打膿灸
2.焦灼灸
3.透熱灸(知熱灸)
B.無痕灸(間接灸)
1.隔物灸
2.温灸
に分類されるという事です。
今説明した方法は、きゅう師の資格がない方や灸治療をした事がない人でも、理解できる用語だと思います。では、具体的に、どの様に治療するのかについていざ説明しようと思っても、一つ一つ行う動作に、名称がありません。鍼治療はかなりあるのですが、灸治療は殆どというより全くないと言えます。
近年の学校では、灸治療をした時、人体に及ぼす効果についての医学的な教育に多くの時間が割かれています。医学重視で医術・医療が軽視されている印象です。
灸治療について用語が存在しなかった理由を考えてみると
(1)日本の伝統医術※2(含鍼灸治療)は、医家の存在があり、医家の門下生以外医術が伝承されない。
(2)日本の伝統医術(含鍼灸治療)は、一子相伝の風習があり、口伝が多い。
事が考えられます。日本では、医家の息子は医家を継承してきました。男子の後継者がいないときは、娘に弟子(門下生)の中で一番優秀な男子と縁組をして、医家を継承して来ました。この事は、中国にはない風習です。中国から伝来した伝統医術が、日本で継承されている理由がここにあります。また、医術が盗まれないように、口伝で伝承してきた事も、共通した用語が出来なかった理由の一つと考えます。
もう一つ理由が考えられます。
(3)明治時代鍼灸治療の制度化に大きく関与した官立訓盲唖院(くんもうあいん)の鍼按術教員である奥村三策(おくむらさんさく)は盲人だったため、灸治療に対する研究が難しかった。
という点です。官立訓盲唖院は、現在の国立行政法人筑波技術大学です。視聴覚に障碍が有る人に対する職業確保の教育機関として、国が運営しています。先人は、明治44年当初から、積極的に教科書作りを行っていますが、灸治療の内容は、当時から変わっていない印象です。
※2 日本の伝統医術…鍼治療、灸治療、薬草治療、柔道整復治療、あん摩治療や運動療法を指す。江戸時代は、柔道整復治療を整骨・接骨治療と言っていた。それ以前は、整骨・接骨治療とあん摩治療を按摩治療と言っていた。江戸時代に、内科治療を行う鍼灸治療や薬草治療は、「本道(ほんどう)と言っていた。医術の中心であった事から、本流の道として捉えられていた。「漢方」と言うようになったのは、西洋医学が主流になった明治時代からである。薬草治療を漢方薬と国民が認識するようになったのは、保険で取り扱いが可能になった昭和40年代頃からである。漢方医術=漢方薬と誤認している人は多いようであるが、医療を行う順番として、「一に鍼治療、二に灸治療、三に薬草治療」と中国の医書にも書いている。日本の伝統医術である漢方とは、鍼灸治療、薬草治療(漢方薬、)柔道整復治療、あん摩治療、養生法や運動療法の事である。清野は、養生法や運動療法を養正治療(ようせいちりょう)と命名し、すべての治療と併用して行う必要がある重要な治療法との認識に立ち、体系化を図っている。
7年前に、海外でセミナーを行った時、灸治療を説明するための用語が不足している事に気づきました。通訳さんに翻訳してもらう以前の問題です。私自身、愕然としました。大学で灸治療を教わりました。その後、30年以上日本で臨床を行い、何人も弟子を雇用しながら、不便は全くありませんでした。それはなぜかというと、見ればわかるからです。でも、人に伝える事が難しいと分かった時、全く自分が行っている技術を伝承出来ていない事に気付きました。
以来、灸治療の用語作りに取り組みました。
用語作りが殆ど出来上がった2018年頃、日本医史学会の懇親会で明治鍼灸大学鍼灸学部(現明治国際医療大学)の後輩である森ノ宮医療大学大学院教授長野仁先生と用語の事について話をしていたら、「是非どこかで紹介してください」と言われました。そこで、2019年春に、1938年創刊『医道の日本』誌へ投稿したのですが、2020年7月に閉刊となり、掲載されませんでした。その後2年経過していますが、セミナーで用いる際、受講者から技術をイメージしやすいと好評です。現在、公表方法を検討しています。
鍼治療をする際の感覚に、鍼触、鍼妙、鍼響があると東洋医学とは何か76で紹介しました。
1)針が皮膚に入る前の針尖が皮膚に接触した時に術者のみが感じる繊細な感覚「鍼触」
2)針が皮膚内に入った時に術者のみが感じる感覚「鍼妙」
3)針が筋肉内に入り患者が響きを感じている時に術者が感じる感覚「鍼響」
鍼触を表す用語はありませんでしたので、清野が造語しました。
それと同様、灸治療をする際の感覚に、灸妙、灸温、灸痛があると考え、灸技術を説明する時用いています。
1)「灸妙」とは、皮膚に艾の熱が近づいた時患者が温感を感じる前に艾を取るものの皮膚面は発赤する程度の熱感覚
2)「灸温」とは、皮膚に艾の熱が近づいた時患者が適度に温感を感じた際に艾を取り皮膚面が発赤する程度の熱感覚
3)「灸痛」とは、皮膚に艾の熱が近づいた時患者が温感を痛みと認識する熱感覚
以上は、全て清野の造語です。作成した用語は、全て公的な所で公表する準備を進めていますが、用語を作った事により、灸技術を的確に伝承出来るようになりました。
承淡安は、日本の灸治療を伝えようとしました。用語が無い中、大変だったと思います。彼は、灸治療の種類を、以下の8つに分類しました。
Ⅰ 直接灸(ちょくせつきゅう)
Ⅱ 隔姜灸(かくきょうきゅう)
Ⅲ 隔蒜灸(かくさんきゅう)
Ⅳ 豉餅灸(しへいきゅう)
Ⅴ 附子灸(ぶしきゅう)
Ⅵ 温針灸(おん(うん)しんきゅう)別名熱針
Ⅶ 温灸器灸(おんきゅうききゅう)
Ⅷ 葯条灸法(やくじょうきゅうほう)
Ⅰは、日本の有痕灸の一つである透熱灸の事です。Ⅱ~Ⅴは、隔物灸です。日本で無痕灸として教育している方法です。Ⅵは、灸頭針を用いた灸治療です。Ⅶは、器具を用いた治療で、日本と中国双方にあります。Ⅷは、「太乙神針」灸法※3、「雷火神針」灸法※3の事です。ⅠからⅦまで、日本の方法を採用したと言えます。
Ⅰの直接灸は、現在中国では殆ど行われていません。ⅡからⅦの灸治療も人によって行っている程度で、臨床上見かけません。Ⅷの「太乙神針」灸法、「雷火神針」灸法も行われておらず、粗悪な艾のみを紙で包んだ細長い棒状の艾に火を付けて温める棒灸が主流です。灸治療は、実質行われていないと言っても過言ではないくらいです。世界鍼灸学会でも、灸治療に関する発表は、皆無です。見かけた記憶がありません。従って、承淡安が中国に齎した艾灸治療は、消えてしまったと言えます。
それは、どうしてか。
以下は、清野の見解です。
[1]もともと中国には灸治療をする土壌がなかった
[2]灸治療の良さが実感出来なかった
[3」艾炷(艾を小さく捻る)を作る艾が中国国内になかった
[4」灸治療の本質を承淡安が伝えきれなかった
[5」承淡安が日本の灸治療を伝えるには時間が短かった
理由を挙げれば切り無いのですが、上記5つが主に考えられます。
[1]の理由(もともと中国には灸治療をする土壌がなかった)
鍼灸術を知るための書物は『黄帝内経』です。『素問』と『霊枢』に分かれていますが、灸治療が軽んじられて来た理由は、『素問』と『霊枢』の解説書である『難経』にあると考えています。後漢の2世紀末中後期に成立したとされる『難経』は、分量もわずかでコンパクトにまとまっています。また、臨床に応用できる鍼灸の原理が明確に示されているため、長い間、鍼灸家の聖典として尊重されて来ました。『素問』や『霊枢』よりも発展した段階にあり、構成に一貫性があるからです。しかしながら、中国古典医学の研究に必須の文献である『難経』では、鍼治療を論じる一方で、灸治療には言及していません。『難経』は、『素問』や『霊枢』の疑問点81を抽出した書物であり、鍼治療を学ぶ際、より基礎的な医書として重視されて来ました。私は、影響力が大きい『難経』に灸治療の記載が無い事が、灸治療の軽視へと繋がったのではないかと考えています。
中国では、歴史上薬草治療が一番行われており、鍼治療は従属的な医術です。灸治療は3世紀以降徐々に軽視されて来ましたので、承淡安がいくら推奨しても、簡単に振り向いて貰えなかったのではないかと思います。
[2]の理由(灸治療の良さが実感出来なかった)
承淡安は、日本の灸治療を受けて、その良さを実感したのだと思いますが、今のように映像で伝える事が出来ないので、言葉だけでは限界があったと思います。鍼灸術が衰退し、鍼灸医術を継承する人も少ない中、それほど意識が高くない人にとっては、半信半疑で聞いている人も多かったでしょうから、灸治療は心に響かなかったのではないかと思います。海外旅行をして来た人の話を聞いても、感動を共有出来ないのと同じ感覚だったのではないでしょうか。
[3]の理由(艾炷(艾を小さく捻る)を作る艾が中国国内になかった・今もない)
艾炷を作るためには、手先の器用さが求められます。欧米人は苦手意識を感じる様ですが、中国人は手先が器用なので、それ自体は問題なかったと思います。しかしながら、小さな艾炷を作るためには、繊細な艾が必要です。艾は、ヨモギの葉の裏側にある繊毛から出来ています。最も繊細な艾は、3%しか作れません。ヨモギを夏に採取して、乾燥させ、1~2月の寒い時期に作りますが、どこの地域でも作れるわけではありません。最高級の艾を作っているのは、新潟県の名立市です。
※艾の作り方にご興味がある方は、清野鍼灸整骨院ホームページ http://seino-1987.jp/html/→東洋医学の辞書サイト→お灸のはなし→艾(もぐさ)の作り方 をご覧ください。
中国では、小さな艾炷を作るのに適した艾工場がありませんので、日本から輸入しなければなりません。当時は、日中の交流はありませんでしたので、この理由が一番大きいのかなあと思っています。但し、日本の鍼灸書は、たくさん翻訳されていたので、このあたりは物流システムを調べないとわからない内容です。誰かご存知の方がおりましたら、教えて頂きたく思います。
ちなみに、お灸は秦の時代に、湖北省から出土した木簡(竹に書いた文章)に記述があることから、約2200年前には存在していた治療法と考えられます。日本には朝鮮半島を経て伝承したと考えられています。欽明天皇の23年(562年)に高麗から呉の国の知聡が帰化した時に齎した医書・『明堂経』の中に鍼灸の事が記載されており、日本ではその頃から行っている医術です。今から1400~1500年前の事です。
その当時は自家用として各戸毎に製造していたようです。大量に生産するようになったのは江戸時代からです。伊吹山で主に作られていました。寛永13年(1636年)、岐阜県の春日で記録文書が残っています。
その後長野県、滋賀県、富山県をはじめ各地で量産されるようになり明治6~7年(1873~1874年)頃には15府県で製造され、お灸は国民の民間療法として浸透して行きました。その後明治・大正・昭和の時代になり、西洋医学の導入・戦後の国民生活の欧米化とともにもぐさの需要が減少、もぐさ工場も閉鎖へ追い込まれるようになりました。
終戦間近、艾は火薬の導火線代わりに使用されました。その頃は蓬(よもぎ)の生産、採取の関係上製造はほぼ新潟県に限られて来ていました。30ヶ所あまりの工場は上越地方に集中していましたが、戦争が終わり、軍の使用も無くなった事により、平成13年(2001年)には3工場しか上質のもぐさを作らなくなりました。他に滋賀県に1工場あるのみです。下級のもぐさは中国でも製作しているので輸入出来ますが、上質のもぐさは日本でしか製造出来ない非常に貴重なものです。日本人特有の繊細さと手先の器用さ、頭脳、勤勉さ、日本の気候、風土がかみ合った最高の技術です。小さく艾を捻る事が出来るのも、この製法があればこそで、日本の灸技術が世界一と言えるのも、先人が編み出した艾製法のおかげです。現在は、名立市の佐藤竹右衛門商店の「佐藤もぐさ」が日本の70~80%を占めています。この貴重な製法を後世に伝え、灸治療が無くならないよう、日本の鍼灸師、国民が支えていかなければならないと思っています。
誰か無形文化財に指定するように推薦してくれませんか。
[4」の理由(灸治療の本質を承淡安が伝えきれなかった)
承淡安が分析した日本の灸治療は、素晴らしいと思います。今回、灸治療の分類を一部紹介しましたが、その他灸治療の仕方をいろいろな角度から分析しています。しかしながら、承淡安が灸治療を体験していた期間は、1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)のわずか8カ月間です。日本には、様々な流派があり、しかも口伝が主ですから、全ての灸治療を見聞する事は不可能です。私は、40年かけて、47都道府県を回り、日本全国の鍼灸治療を見聞きして来ました。それでも、まだまだ不十分だと思っています。灸治療の本質を理解出来ているかと言えば、そうだと言い切る自信はありません。
師匠である岡田明裕先生に、20歳代後半の頃、漢方薬(薬草治療)を学ぶ必要性が有るかを尋ねました。その時、「鍼を学ぶだけでも大変なのに、灸すら十分学べていない」というお言葉を頂きました。まだ若かった私は、何でも学ぶ姿勢が有ると思い、数年「生薬(しょうやく)」をコツコツ勉強し、漢方薬の効能を学びました。薬名を見る時、薬草の内容を見る事によりどのような効能があるのか分かるようになりましたが、とにかく薬草の種類が多く、生産場所によって効能が違うため、今後どれだけ努力しても、縦横無尽な処方が出来るまで知識を高める事は出来ないだろうと思う事が出来ました。今ある症状に対して適切な処方かそうでない処方かの判断が付く程度のレベルですが、日本東洋医学会に参加して、知識の補充には努めています。
今にしてみれば、岡田師匠は、「鍼と灸の勉強に専念しなさい」と言いたかったのだと思います。灸治療本質の探究は死ぬまで続くと思い、研究を続けています。
[5」の理由(承淡安が日本の灸治療を伝えるには時間が短かった)
承淡安は、1899年生まれで1957年に亡くなりました。還暦前に亡くなっています。中国伝統医術(TCM)が、正式に国家医術として復活し、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が出来たのは1956年です。中国国内で始まったばかりです。もう20年生きていたら、中国に日本の灸治療は、根付いていたのではないかと思います。
承淡安の時代に行われていた灸治療は、温熱灸と考えられる方法で、「太乙神針」灸法※3、「雷火神針」灸法※3を行っていました。これは、数種類の薬草を艾に入れ、それを紙で巻いて棒状にして先端に火を付け、体から少し離して熱を与える方法です。無痕灸の一方法ですが、温灸という方法になります。道具の形状から「艾条灸(がいじょうきゅう)」とも言いますが、棒状になっているので、一般的には「棒灸(ぼうきゅう)」と言われます。
※3「太乙神針」灸法、「雷火神針」灸法・・・清の光緒九年(1883年)に成書された『灸法秘伝』(金冶田の伝,雷少逸の編)を、同年に劉国光が刊刻した際、巻の後ろに『太乙神針』一巻を附け、あわせて「雷火針法」一篇を収録した。『灸法秘伝』の最大の特徴は,葉圭の「面碗灸」を基礎として発展させた「銀盞灸」と、この灸器具を使用して灸治した臨床70症である。その「灸薬神方」と灸穴は、太乙神針とおおむね一致するので、劉氏は『灸法秘伝』と『太乙神針』を合刊し、後者は雷火神針(モグサに薬物をまぜた棒灸)を源とするので、別に「雷火針法」一篇を巻末に附け加えた。「神針」は、日本人にとって見慣れない用語である。中国の本草(薬草)を詳細にまとめ上げた李時珍(り じちん、1518年―1593年 中国明の医師。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』全52巻、奇経や脈診の解説書である『瀕湖脈学』・『奇経八脈考』を著した。)は『本草綱目』火部の發明で、「神針」について書いている。
【原文】
時珍曰:神針火者,五月五日取東引桃枝,削為木針,如雞子大,長五、六寸,乾之。用時以綿紙三、五層襯於患處,將針蘸麻油點著,吹滅,乘熱針之。又有雷火神針法,用熟蘄艾末一兩,乳香、沒藥、穿山甲、硫黃、雄黃、草烏頭、川烏頭、桃樹皮末各一錢,麝香五分,為末,拌艾,以濃紙裁成條,鋪藥艾於內,緊卷如指大,長三、四寸,收貯瓶內,埋地中七七日,取出。用時,於燈上點著,吹滅,隔紙十層,乘熱針於患處,熱氣直入病處,其效更速。並忌冷水。
【解釈】
時珍曰く:神針火とは、五月五日に東方へ伸びた桃の枝を取り、大さ雞子(けいし)の如く,長さ五、六寸の木針に削って、乾したものである。これを用いる時は、綿紙三から五枚重ねて患部に当て、針に麻油を蘸(つ)け、火を點(つ)けて、吹き滅し,熱に乘じて針をする。又、雷火神針の法が有る。熟蘄艾末(じゅくきかいまつ)一兩、乳香、 没藥、穿山甲、硫黃、雄黃、草烏頭、川烏頭、桃樹皮末を各一錢、麝香五分、以上を末にして、艾に混ぜ、濃紙(みのがみ・厚くて強い和紙)を数條に裁成し、藥を鋪(し)きつめ艾の內に入れ、指の大きさくらいに固く巻き,長さ三、四寸、瓶の內に貯めおき,地中に四九日埋め、取り出したものを用いる。用いる時は、燈火で火を點(つ)け、吹き滅し、紙十枚を隔て、熱に乗じ患部に針をすると、熱氣が直ちに病所に入り、その効果はつとに速い。いずれも冷水を忌む。
以上の事から、モグサに薬物をまぜた棒灸は、1500年代から行われていた事が分かる。
承淡安は、1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)にかけて8カ月来日しました。棒灸が主流だった中国に比べると、艾炷を作り、皮膚の上に置き、火を付ける方法は、衝撃的だったのではないでしょうか。艾を焼き切る行為は野蛮だという事で、清の皇帝は忌み嫌ったという背景がありますので、信じられない光景を見たという印象だったと思います。日本でも、天皇が灸治療を受けるために退位して上皇になってから治療を受けた歴史があります。大東亜戦争(第2次世界大戦)が終戦後、GHQのマッカーサーが灸治療を見て、野蛮な医療だと思い灸治療をやめさせようとしています。日本人以外の人が見ると、とても受け入れがたい光景の様です。しかしながら、承淡安は、灸治療に感銘を受け、何度も灸治療を体験し、日本の方法を分析しています。彼は、自分の認識を改めようとする柔軟な思考が出来た人だったと思います。
今回の話しは、ここまでです。お付き合い戴き、本当にありがとうございます。
(おまけ)
承淡安が分類したⅥの温針灸(おん(うん)しんきゅう)別名熱針は、日本で灸頭鍼法と言われる方法です。日本の笹川智興が考えた灸法です。笹川は昭和10年(1935年)に上下2巻の『心灸療法大成』という著書を出版しました。彼は「針頭灸」と呼んでいましたが、いつの間にか後世の人から「灸頭針」と呼ばれる様になりました。「しんとうきゅう」より「きゅうとうしん」の方が言いやすかったからかと類推します。赤羽幸兵衛が、医道の日本社より『灸頭針法』を昭和46年(1971年)に出版しました。「きゅうとうしん」という呼び名を助長したと言えます。増刷を繰り返すうちに、書名を『灸頭鍼法』に変更しています。それにより、「灸頭鍼法」という灸法は、灸法なのか鍼法なのか分かりづらくなったと思います。笹川は灸法として用いています。私は、技法名として、「針頭灸」もしくは「灸頭鍼」が流布した現状を考え「灸頭鍼法灸」と呼称すべきだと思います。後者は自分で考えた名称ですが、少し長いので、考案した笹川氏に敬意を払い「針頭灸」というのが宜しいと考えます。
笹川は、昭和6年頃「針頭灸」を発表しています。著書を出版したのは、ちょうど、承淡安が来日していた時です。中国では、針を熱して刺す方法はありましたが、針に艾を付ける方法はなかったと思います。恐らく、承淡安は「針頭灸」を見ていたのではないかと思われます。笹川は当初、「斜刺した針」(皮膚面に対し45度に刺した針)に艾を付けていました。その後、「直刺した針」(皮膚面に対し垂直に刺した針)に艾を付けています。輻射熱を意識した方法ですが、艾が燃え落ちる危険性を少なくするため、安全性を考えて直刺にしたかもしれません。
艾を針柄に付ける時、日本では(針柄が短いため)球形の艾を両手で装着して燃やします。中国では、針柄が長く、針は太い物を使用している事もあり、片手で楕円形状の艾を付けます。笹川が当初行っていた方法を踏襲しているとも言えます。承淡安が、日本の細い針ではなく太い針に合った方法を考えたのだと思います。この方法は、現在中国で行っている臨床家を殆ど見かけません。艾を装着する方法が難しいからでしょう。日本でも、器具に頼った方法を選択するきゅう師が多くなった印象です。技術が伝承されない事は、医術の衰退に繋がります。何とか、鍼灸技術を継承したい、そんな思いから、「おまけ」を書いています。
日本の「針頭灸(灸頭鍼法灸)」は、輻射熱を皮膚面に与える事を目的としています。中国の「温針法」は、針自体を燃やして熱くすることにより、針を通じた熱が身体の内部を温めるという考えのため、「針を温める灸」という名称になったと思われます。李時珍が伝える「神針」方法が伝承されて来た事も、背景にあったと思います。でも、もしかしたら、「針頭灸」という名称を耳にしなかったのかもしれません。
次回は、承淡安が中国に戻り伝えた日本の灸技術について、細かく紹介します。 (つづく)
参考文献
(1)「南京中医薬大学張建斌先生に聞く 承淡安と澄江学派が現代中医鍼灸に与えた影響」『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)、136-147、東洋学術出版社
(2)《承淡安 鍼灸経験集》 項平・夏有兵主編、上海科学技術出版社、
2004.10.
(3) 『鍼灸の科学 実技篇』 柳谷素霊著 医歯薬出版株式会社
1959.3.
(4) 『中国鍼灸史図鑑』第2巻 黄龍祥主編 荒川緑監訳 日本内経医学会・岡田隆・小林健二・佐合正美訳 科学出版社 2014.10.P758
(5) 『新註校定 国訳本草綱目』第三冊 新註校定代表者木村康一 訳者鈴木真海 春陽堂書店 1974.5.P70-71
(6)『灸頭針法』 赤羽幸兵衛著 医道の日本社 1971.9. P36-38
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
令和4年(2022年)3月29日(火)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。