東洋医学とは何か 70 日本では 1911年に鍼灸治療の科学化を目指し鍼灸師が誕生 中国では1822年から1953年まで鍼灸治療や薬草治療は行われませんでした 1954年に中国伝統医療が国家医療として132年ぶりに復活 新たな伝統医学の構築が始まり1960年に現代中医学(TCM)が誕生しました
◇東洋医学とは何か 76 鍼灸治療を行う際に学ぶ「補瀉」の概念は入鍼・運鍼・抜鍼の際に必要な考え方です 中国伝統医術(TCM)では伝統的な技巧を排除しています鍼触・鍼妙・鍼響を大切にする日本伝統医術(TJM)の繊細な鍼治療技術は中国古来より伝わる補瀉の手技を重視しています◇
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話11回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療、68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、69は明治時代の医療制度制定について、70は中国における太古から1960年頃までについて、71は中国で1960年に誕生した中医学(TCM)成立までの経緯について、72は中医学(TCM)とは何かについて、73は中国に伝わった日本の鍼灸技術がどの様に教育されているかについて、74は中国で行っている鍼術の技法について、75中国で取り入れた日本の鍼術についてでした。76回目は、中国伝統医術(TCM)を作った承淡安の鍼術に対する考え方についてです。
前回と前々回は、内容がとても専門的でした。今回も、やや専門的です。このコラムに興味を持たれた貴方に感謝いたします。
何で、わざわざ専門的なことをコラムにしているのかというと、日本の鍼灸治療は、世界のどの国よりも進んでいるということを伝えたいためです。鍼灸治療にご興味がおありの方は、過去75回すべてとは言いませんが、65からお読みいただきたく思います。
私は、今まで世界の国々へ100回以上訪問し、世界における鍼灸治療の実情を長年にわたり調査して来ました。これまで学んで来たことや体験して来たことを、後進に伝えておこうと思い、コラムを毎月こつこつ書いています。世界の鍼灸事情にご興味がある方は、清野鍼灸整骨院ホームページ seino-1987.jp 内の「東洋医学の辞書サイト」→「日本から世界へ」をご覧いただきたく思います。
(ここから先は前回と同じ内容です 初めてこのコラムをご覧の方はお読みください)
中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われて来ました。1822年に、清王朝の道光帝は、侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。
中国人は、鍼灸医術の復興を目指し、日本の医術を学びに来ます。その中心人物は、1934年から1935年にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査した承淡安(しょうたんあん)です。彼は、東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取りました。中国に帰った後、日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。
1956年になり、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が出来、鍼灸医術は、正式に国家医術として復活しました。初代校長となった承淡安の教育方針は、その後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になりました。
(今回のコラムはここからが新しい内容です)
鍼灸治療をする際、「補瀉(ほしゃ)」という概念が出てきます。「補」は、おぎなう、添える、与える、益す、加える、救う、済(すく)う等の意味です。「瀉」は、取る、奪う、減ずる、剋する、殺す、抑える等の意味です。補瀉は、どちらも様々な意味があるため、人によって、異なる解釈を持ちやすいと言えます。補瀉の概念は、針を体内に刺す時から抜く時まで、全ての場面で活用されている概念です。それを分かりやすく説明するため、清野は入鍼(にゅうしん)・運鍼(うんしん)・抜鍼(ばっしん)という用語を用いて説明しています。
入鍼…針を皮膚面に置いてから穿皮※1 するまでの手技
運鍼…針を穿皮してから皮下内で行っている手技
抜鍼…針を体内から抜き出す手技
※1 穿皮(せんぴ)…針が皮膚内に進入すること
抜鍼は、学校で教えているので、はり師であれば、誰でも知っている用語です。
運鍼は、学校では教えていない所が多いと思うので、初めて聞く人がいるかもしれません。
入鍼は、清野が造語しました。同じく清野が造語した「鍼触(しんしょく)」の感覚を説明するためには、入鍼する時の手技を伝える必要があります。入鍼する際の手技にも、明確な名称がありません。先人から教わった手技をどのように伝えるか、長年悩んできたので、用語作りには苦労してきました。特に、外国でセミナーをする時は、用語が無いため、説明に時間を要します。日本の臨床家であれば、「入鍼」や「鍼触」という言葉は、そんなに違和感がないのではないかと思います。「入鍼」は、「抜鍼」に対比する言葉ですので、造語というにはおこがましいですが、もしかしたら先人が言っていたかもしれません。誰か知っている人がいたら、教えてください。
日本は、針が体内に入る時を大切にします。「穿皮」というのは、皮膚が開くという意味があります。皮膚を突き破るのではなく、皮膚が開くのを待ってゆっくり入り込むイメージです。太い針を入れる時は、皮膚が開いても痛みが生じやすいので、一気に刺し込んで「切皮(せっぴ)」します。「穿皮(切皮を含む)」を行う際の感覚を「鍼触」と呼称しています。切皮を行う時は、瞬間的に衝撃を与える時用います。入鍼時感じる患者の感覚は、運鍼してから感じる得気とは異なります。瞬間的な衝撃もまた鍼響の一つです。
入鍼する時の手技は、3つに分類されます。
1.捻鍼法
2.管鍼法
3.打鍼法
です。それぞれに、手技が複数あります。承淡安は、この手技は、全て用いていません。前回(東洋医学とは何か75)書きましたが、中国では針を体内に差し入れる時、一気に針を刺し込みます。つまり、入鍼時は切皮という方法以外行いません。また、入鍼時の手技を、論じていません。そのため、対象とする病気を狭小させました。
話を元に戻します。
入鍼、運鍼や抜鍼する際に、「補瀉」の概念を用います。この概念は、鍼術を学ぶ際の基本書とされる『黄帝内経霊枢』第一「九針十二原」篇に出てきます。本文には、「補瀉之時、以針為之(補瀉の時、針を以って之を為す)」と最初に出てきます。わかりやすく訳すると、「(患者さんに)補か瀉の状態が見られる時、鍼治療をして病気を治しましょう」という意味です。この後、補瀉の説明が随所に出てきます。補と瀉に対して、後世様々な手技が配せられ、細かな分類がされていきます。
承淡安は、『素問』『霊枢』『難経』や『千金翼法』等の文献を検討し、補瀉の手技に統一性がなく矛盾が多いことから、補瀉手技には刺激の強弱があるだけだとしました。抜鍼時にも、補瀉を区別する必要が無いと言っています。
承淡安は、運鍼時と抜鍼時を以下のように教育しました。
(『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)に書かれてある承淡安の手技に関する説明文の中国語翻訳は、原文に忠実ではないと思われる部分があるため、清野の解釈で修正を加え以下に記します。)
〔運鍼する際〕
1.一般には、体質が強壮あるいは新病の者には相対的に強刺激で、体質が弱いあるいは久病の者には相対的に弱刺激を行う。弱刺激で患者が酸・麻・重・脹の得気感を得られなければ、提挿捻転の幅を大きくして刺激量を増加させる。
2.医者に得気が伝わる感覚の強弱に基づいて刺激の軽重の変更を決めることが出来る。得気感が強くかつ遠くに伝送するようなら、重刺激に変え、得気感が弱くかつ近くにしか伝送しないようなら、刺激を強めなければならない。
(清野解説)
承淡安が中国古来より伝わる補瀉手技を用いなかったことに対し、賛否があったかもしれません。清野が類推するに、その理由は、3つ考えられます。
1.中国伝統医術は、清代に途絶えましたが、中華民国が国家医療として復活させなかったのは、鍼灸治療や薬草治療を行う際の考え方を、医学と認めていなかったからです。中華人民共和国も建国当初は同様の考え方でした。中国では、伝統的に物事を陰陽観、五行観に当てはめて理論展開していきます。そのため、陰陽論や五行論は、恣意的論理展開になることが多いため、科学的ではありません。伝統医術を理解する時、「補瀉」や「虚実」のような曖昧な用語で分類された手技を採用しにくかったのではないかと思います。だとすれば、清野はその考えに賛成です。
残念ながら、承淡安亡き後生まれた「弁証論治」は、あいまいな用語を使った病態把握をしています。今の中国伝統医術(TCM)は、科学的な道へ進もうとしていた承淡安の意図するところではなかったのではないかと考えています。現在、世界中が、「治療結果を科学的に証明」しようとしています。私は、この手法では、科学化を行っているとは言えないと考えています。
2.承淡安が、「補瀉の手技」を採用しなかったのは、「得気」に特化した鍼手技に統一性を持たせようとしたからかもしれません。当時は、鍼治療が国家医療から途絶えて132年が経過していましたので、複雑な手技を教育しても人材が育ちにくいと考えたからかもしれません。
3.承淡安が研究していた頃、中国国内では戦争が行われており、書物を十分手にすることが出来なかったと思われます。日本での留学期間も短かったことから、杉山流や杉山真伝流の補瀉手技などを学ぶ機会がなかったかもしれません。いずれにしても、個人が知り得て判断するには困難性があったのではないかと考えます。
〔抜鍼する際〕
1.どのような手法を行っても、抜鍼時には必ず針を軽緩に捻動させ、ゆっくりと引き出し、針孔に消毒綿花をかぶせて、数回揉む。
(清野解説)
中国では、抜鍼方法が一つとなりました。痛覚や異感覚の消失が目的です。刺鍼手技が、得気を得る方法に限られているので、これで事が足りています。日本には、抜鍼時に幾つも手技があります。治療効果に大きな差異が出ることを、承淡安は知らなかったのだろうと思います。
中国の医書は、漢文です。難しい漢字が並んでいます。同じ漢字でも、漢代から清代までの間に、意味が異なる場合もあります。意味を理解する事は、容易ではありません。漢代(紀元前206年~220年)に編纂された中国最古の医書『素問』と『霊枢』は、現存していません。今に伝わるのは、宋代(960年~1297年)の書物です。当時、活版印刷するため、林億(りん・おく)ら4人が主となり、本を編纂し、篇の順番を入れ替えました。81篇ある内容は、書かれた年代が前後しています。そのため、細かく検討しようとすると、さらに複雑困難です。
中国人が読もうと思っても、内容を理解することは容易ではありません。承淡安の頃は、戦争のため、人民が十分な教育を受けられなかったため、識字率が極めて低く、自分の名前を書けない人民が大半と言っていいほどでした。そのため、字の画数を減らした「簡体字(かんたいじ)※2」が導入されました。それによって、さらに古代の漢字はわかりにくい文字・文章になりました。
※2 簡体字…中国文字改革委員会が、1955年に『漢字簡化方案草案』を発表した。1956年1月に『漢字簡化方案』(汉字简化方案)が国務院から公布され、514字の簡体字と54の簡略化された偏や旁が採用された。1959年まで4度改訂公布され、1964年5月に『簡化字総表』にまとめられた。1965年1月『印刷通用漢字字形表』が公布され、計6196字の字形や筆画、筆順などについて、具体的な規定を制定した。簡体字は俗語で、正式には「簡化字」。従来の文字は、「繁体字 (はんたいじ)」と言われる。中華民国(台湾)は、繁体字を用いている。シンガポールやマレーシアは、簡体字も使用している。日本は、簡体字が用いられるようになって以降の本は文献として引用する際そのまま簡体字を用いるが、繁体字の本を敢えて簡体字に変えては使用しない(中国は、昔(中華民 国以前) の本も全て簡体字に変えて出版している)。
簡体字は、その後も増え続けています。この簡体字には問題点があります。一つの簡体字に2つの繁体字が当てはめられている点です。同様の字は相当数あります。漢字は10万字以上ありますが、簡体字は7000字ほどあります。1988年1月に発表した『現代漢語常用字表』は常用字2500字、次常用字1000字です。日常使用する字は少ないですが、二つの漢字(繁体字)が一つの字(簡体字)に置き換わっていると、意味が異なる場合も出て来ます。特に、生薬の名前を表す時は、問題です。薬を処方する際、いくつかの生薬を混ぜて煎じますが、従来2つの違う名前である生薬が、適切に処方されていない事態が生じています。薬の名前は同じでも、全く違う薬が処方されている事になります。この事実を明らかにしたのは、北里大学東洋医学研究所天野陽介先生(文学博士)です。拙速に簡体字を増やしたため、学問上問題が生じています。現在の中国人は、自国の文化を継承すること自体に苦労していると言えます。
承淡安が生きていた時代は、文化の伝承が困難であり、字を読める人自体も少なく、来日した1934年は簡体字が創案された年です。まさしく激動の時代を生きて来ました。承淡安が中国伝統医術を復活させるためには、並々ならぬ苦労があったと思います。それは、戦後の日本でも同じです。柳谷素霊は、苦労して集めた書物が、東京空襲で、全て灰になりました。日本の鍼灸師もまた、貴重な書物を、手書きで書き写して勉強したと、先輩から聞き及んでいます。諸先輩方は、古典を大切にして来られました。その姿を見て、清野も古典を学びましたが、独学で中国医書を学ぶことは困難というより無理だと思いました。
40才過ぎから研究を始め、日本東洋医学会で茨城大学教授真柳誠医学博士に出会いました。中国古典を学ぶため、茨城県水戸市にある茨城大学へ約2年通学しました。車で片道約2時間、渋滞時は4時間程かかることもあり、運転した後眠らず授業を受けるための体調管理に、ずいぶん苦労しました。その際、中国医書を自力で読むためには、中国学を知らなければ無理だということを知りました。中国学とは、中国の哲学、文学、歴史、語学、芸術及び日本の漢学を指します。現在は、中国学が及ぼした世界の文化も対象です。中国学を学べる大学をいくつか検討しているうちに、中国医学に精通する第一人者の先生は大東文化大学に在籍する林克教授だと知りました。真柳先生から林先生を紹介していただきました。林先生からは、大東文化大学文学部に1年通学して、中国学を学ぶための基礎を身に付けるように言われました。通学に約1時間半を要する埼玉県東松山市へ1年間通学して学力を付け、翌年文学研究科に入学しました。社会人入試ではなく、一般入試です。外国語は、中国語で受験しました。以後、時間がある時は、文学部中国文学科の授業も受け基礎学力を付けることは怠らず、修士課程に6年間通学して学位(修士)を取得しました。文学部中国語学科のみならず中国語学科や書道学科の学生や教授との交流は、とても実りある時間でした。時には、日本文学科の教授にも指導を受け、学生と交流しました。その後も3年大学院へ行き林克教授が70歳で退官するまで指導を受け、ようやく論文を1本書きました。その論文が、「気」に関する事です。
「気」は、「働き」を表すことだとわかりました。中国医学において、「気の思想」は根幹をなします。誰もが、「気」を口にします。「気」をエネルギーだと思っている人もいます。9年かけて、「気」は「働き」を表す言葉だと理解するために、ものすごい労力を要しました。
対象とした古代の主要な文献は、『國語』・『論語』・『老子』・『墨子』・『列子』・『孟子』・『莊子』・ 『荀子』・『韓非子』・ 『易經』・『春秋左氏傳』・『周禮』・『儀禮』・『禮記』・『管子』・『呂氏春秋』・『淮南子』の17種類です。古代の主要な文献17種類767個所に見える「氣」字と主要な出土文献9種類25部74個所、計42種類841個所を對象とし、『十三經注疏校勘記』・『皇清經解』等の校勘記に従い検討した結果、古代の主要な文献の対象とすべき「氣」※3字は764個所、主要な出土文献の「氣」字と解釈すべき字を72個所、計836個所でした。「氣」字のみを含む「氣」字が用いられた192の用語を使った文章を抜き出し、「氣」字が用いられている意味を全て検討した結果、「氣」字は自然界の事物やヒトの「働き」を表している辞であると考えられました。192の用語は以下の4つに分類されます。
(1)「氣」字を「自然界の働き」として捉えている辞
(2)「氣」字を「呼吸の働き」として捉えている辞
(3)「氣」字を「体の働き」として捉えている辞
(4)「氣」字を「心の働き」として捉えている辞
身体分析する際、「気」は呼吸か体か心の働きを言い表したいために使っている辞だという事がわかります。ご興味がある方は、『大東文化大学中国学論集 第31号』「出土文献に見える「氣」字について」(2013年12月)をご覧いただきたく思います。ご希望の方には、抜き刷り冊子を進呈します。
※3 「氣」字…「気」は、戦後に出来た簡略字で、「氣」が正字です。中国に、「気」字はありません。
中国の思想は、「陰陽観」「三才観」「五行観」に基づきます。一つのものを見るとき、2方向、3方向、5方向から分析する考え方です。「氣の思想」は、陰陽観に基づき、「気血」の考えへと発展します。「気」を単独に用いる時と「気血」または「血気」と用いる時は意味が異なります。この時の「気」は「こころ」、「血」は「からだ」を意味します。このようなことが分からないと、とても古代の「医書」を読むことは出来ません。現在通用している「訳本」を見ても、理解しがたい部分が随所にあります。全く訳しておらず原文の用語をそのまま使用している訳本も少なくありません。先人が苦労して古典を解釈してきた内容も、見直す必要があります。
「補瀉」に話を戻します。
『黄帝内経霊枢』第一「九針十二原」篇に
【原文】 補瀉之時、以針為之
【訓読】 補瀉の時、針を以って之を為す
【解釈】 (患者さんに)補か瀉の状態が見られる時、鍼治療をして病気を治しましょう
と出てきます。ここで言っているのは、「補瀉の思想」です。患者さんを「陰陽観」に基づいて、2つのタイプに分類しています。鍼灸師の皆さんは、補と瀉に対して、様々な手技を思い浮かべることと思います。それは、「補瀉論」です。承淡安は、「補瀉論」を否定しました。古典的な考えは医学としてみなさないという中華民国や中華人民共和国の考えは、「陰陽論」「三才論」「五行論」を否定しています。中国学を学ぶとき、そのことを強く指導されました。清の時代に、満州民族である皇帝乾隆帝は、歴代の書物を漢民族に編纂させ『四庫全書』※4を残しました。その時すでに、中国医術の論法は否定されています。「陰陽論」「三才論」「五行論」で身体分析・病態分析することは、古今東西、現在も否定的です。日本の鍼灸師は、そのことを認識する必要があります。
清野は、「補」は「機能が低下している病態」、「瀉」は「機能が亢進している病態」と理解すれば良いのではないかと考えます。その上で、先人が残した「補瀉論」を取捨選択し、科学的な裏付けが取れる手技を継承して行くことが大切だと考えています。清野は、このような方法を進める事が、伝統医術の科学化だと思っています。
杉山流や杉山真伝流の補瀉手技は、臨床現場において、今なお色あせていません。日本の鍼灸治療は、確実に、医療現場で役立つ医術です。緊急時や急性期で外科処置が必要ない患者さんの場合、まず鍼灸治療を5~15分行い、それで効果を得られなかったら現代医学の処置を行うという順序が、医療現場で最もふさわしい処置だと、心から思っています。
※4 『四庫全書』…隋代以降の書物を、経部・史部・子部・集部に編纂し、4つの書庫に保管したので、四庫全書と言われる。4部の全容は、44類、3503種、
36000冊、230万頁、10億字と言われている(部数・巻数の数え方には数種あり)。経部は、儒学を中心とした哲学思想書であり、医書は子部である。全て手書きで
あり、全書正本7部副本1部中、正本3部が各地で保管されている。北京の紫禁城(清の皇帝が住んでいた城)にあった「文園閣本」は、中華民国(台湾)の故宮博
物館(台北市)にある。蒋介石率いる中華民国政府が、中国共産党との戦いを避けるために台湾へ移動した際、清代までの国宝級重要文化財を殆ど中国本土から持ち出したため、今なお大多数が台湾にある。
(おまけ)
どの学問もそうですが、漢文も読んでいなければ、すぐ学力が落ちます。英語を日常的に話さなければ話せなくなるのと同じです。大東文化大学大学院を卒業(修了)後、早稲田大学大学院文学研究科の授業を聴講しながら、漢文読解の勉強を続けています。
余談ですが、私が在籍している順天堂大学医学研究科医史学研究室内で、酒井シヅ特任教授(現名誉教授)を中心に、長年国宝である『医心方』を研究して来ました。先行研究書物を検討する際、『医心方』に関する訳本を見ても、疑問を抱く部分が多々あります。訳本を読まない人には、何の問題も生じませんが、先人の書物を勉強しようと思っている人は、1冊の本だけで鵜呑みにせず、様々な本を比較検討する事が大切だと考えます。
今回の話しは、ここまでです。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
次回は、承淡安が伝えた日本の灸技術についてです。 (つづく)
参考文献
(1)「南京中医薬大学張建斌先生に聞く 承淡安と澄江学派が現代中医鍼灸に与えた影響」『中医臨床』、第三十六巻第三号(通巻一四二号)、136-147、東洋学術出版社
(2)《承淡安 鍼灸経験集》 項平・夏有兵主編、上海科学技術出版社、
2004.10.
(3)『鍼灸の科学 実技篇』 柳谷素霊著 医歯薬出版株式会社
1959.3.
(4)『補瀉論集』 柳谷素霊著 石山針灸医学社 1977.12.
(5) 『現代語訳 黄帝内経霊枢』上巻 石田秀美・白杉悦雄監修 東洋学術出版社 1999.12.
(6)『大東文化大学中国学論集 第31号』「出土文献に見える「氣」字について」 清野充典著 大東文化大学大学院 2013.12.
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
令和4年(2022年)2月17日(木)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在76年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。