東洋医学とは何か 7 -漢方の1つ鍼灸治療の復活-
◇東洋医学とは何か 70 日本では 1911年に鍼灸治療の科学化を目指し鍼灸師が誕生 中国では1822年から1953年まで鍼灸治療や薬草治療は行われませんでした 1954年に中国伝統医療が国家医療として132年ぶりに復活 新たな伝統医学の構築が始まり1960年に現代中医学(TCM)が誕生しました◇
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話6回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療、68は江戸時代から明治時代初期までの鍼灸治療、69は明治時代の医療制度制定について書きました。今回は、中国の話です。
日本では、明治政府がドイツ医学を推奨したことにより、漢方医学は衰退しました。漢方の中心的な医療だった薬草治療(漢方薬治療)は、未だに国家医療として復活したとは言い難い状態です。鍼灸治療、整骨治療、按摩治療は、明治44年(1911年)に「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」が発令され、鍼灸師と按摩師が誕生し、整骨治療の一部として柔道整復治療が認められ柔道整復師が誕生したことにより、現在においても伝統医療はおおむね継続出来ています。
一方、中国では、春秋戦国時代には「良医」の文字が見え、既に医者の存在が確認できます。中国を最初に統一した秦では、国家官制に組み込まれた太医令という職位が見られることから、古代より国家が医療を重視していたことがわかります。『周禮』には、医官として醫師、食醫、疾醫、瘍醫、獸醫という五つの官職が書いています。醫師は、医療の中心を担い医療を提供します。食醫は、王に出す食膳の栄養、温度を管理します。疾醫は、万民の疾病の治療にあたります。瘍醫は、傷、膿など外傷、皮膚病の治療にあたります。獸醫は、畜獣の治療にあたります。この制度を、日本で最初に実施された『大宝律令』の「医疾令」で、模倣しています。
中国では、漢の時代から隋、唐、元、宋、明などを経て清の時代まで、薬草治療と鍼灸治療が国家医療として継続して行われます。医療の中心は薬草治療で、鍼治療はあまり重要視されず、灸治療はほとんど行われませんでした。中国で最初に体系化された医学書『黄帝内経素問・霊枢』の中で、『霊枢』では灸治療があまり取り上げられなかったことが原因の一つだろうと、清野は考えています。薬草治療が中心だったため、鍼治療はあまり発展したとは言い難く、補助的な医療だったと考えられます。日本で鍼治療や灸治療が大きく発展した背景には、薬草を手に入れることが難しかったため、鍼灸治療を駆使せざるを得なかったという事情があります。日本と中国が真逆なのは、歴史の「彩(あや)」かもしれません。
江戸時代の後期にあたる1822年に、清王朝は「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。」と言う勅令が発せられました。つまり、「皇帝の体に鍼や灸をする行為は許されない。」と言うお触れにより、宮廷の太医院で鍼灸科が廃止されたわけです。この事は、皇帝の侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事が原因です。(なかなか文献で何が起きたのか見つけられないのですが、ここまで黄帝が激怒した背景を勘案すると、おそらく死に至ったのではないかと推測されます。)皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。中国では、鍼灸治療の研究が途絶え、医療としての技術伝承が困難となり、中華民国初期には壊滅状態となります。1820年頃は清王朝の領土が最も大きく隆盛を極めていた時でしたが、イギリスの植民地であるインドで栽培した麻薬・アヘンを、清国に輸出して莫大な利益を得ていた時期でもありました。国内にアヘンが溢れ、イギリスとアヘン戦争をして敗れたことで、国が弱体化したことも、中国伝統医療の衰退に拍車をかけたと思われます。
1912年に設立された中華民国政府は鍼灸治療や薬草治療を国家の医療として認めませんでした。中国の伝統医療は、病態分析を陰陽五行論で解釈して来ました。西洋医学が中心となって100年近く経過していることもあり、新中国政府は、古代から清朝までの医学体系を医学・医療と認定し難かったのだろうと推測されます。1949年に設立された中華人民共和国以降も、同様の立場でした。
中国では、日本が明治時代になった1868年以降、大量の日本書が翻訳され、中国伝統医学の復興を目指した多くの中国人が日本に留学しています。日本の医学者達が、1800年代(江戸時代)以後、近代医学と東洋医学との融合を計ろうとしていた思想と当時の研究結果が受け入れられたのがその理由であろうと考えられます。また、日清戦争で日本が勝利したことにより、日本が清国より進んだ技術を持っているという認識が中国人にあったことと思われます。中華民国時代から幾度となく行ってきた復興運動は中国新政府を動かし、1954年に中国で伝統医術が132年ぶりに国家の医療として認められました。この背景には、別な側面もあります。台湾に移った中華民国が、1949年以降も国連で中国国家として認められ、中華人民共和国が国家として認知されなかったため、国際社会に認めてもらう方策として、中国の伝統を引き継いでいることをアピールする必要がありました。4つの方針を打ち出しましたが、その一つが、中国伝統医療でした。薬草治療や鍼灸治療は中国伝統の医療であるとの認識に立ち、従来から立場を一変させたわけです。
1955年に、南京で「中医研究院」が設立され、1956年に北京・上海・広州・成都に「中医学院」が設立されました。当時は清朝の鍼灸廃絶策から、既に100年以上経ていました。中国の伝統を受け継いだ正式な鍼灸が殆ど絶滅し、非常にレベルの低い民間療法的な鍼灸しか無く、それも極僅かだった時代です。この間、伝統医術の復興を願った中国人達により、日本人が書いた多くの伝統医学書が日本から中国に還流或いは日本人が研究した様々な中国古典籍の研究書が中国に伝入する事が行われました。
中華人民共和国が建国した1949年から1966年の文化大革命発動までの間、昭和の鍼灸書16種が翻訳出版されています。それらの著者は、柳谷素霊・代田文誌・長浜善夫・赤羽幸兵衛・本間祥白・間中喜雄ら、昭和の日本鍼灸界をリードして来た先生方です。これらの翻訳出版を担ったのは、中華民国時代から鍼灸の教育・啓蒙を行っていた中医師です。特に、その中心となった人物は南京中医学院初代校長の承淡安です。彼は、1934年から1935年にかけて8カ月間来日して日本の先進的な鍼灸教育を調査しました。その間、1929年に設立された東京高等鍼灸学校(呉竹学園)にて約半年程の授業を受け、終了時には日本の鍼灸教育を受けた資格証を受け取っています。承淡安が養成した直接の門人は数百名、通信教育等も含めると3千数百人と言われています。彼ら門人は1956年から中国各地に設立された中医学院で教鞭に当りました。
1960年に刊行された中医学院の第1版統一教材『針灸学講義』は彼らが編纂した書物です。同じく、第1版統一教材の『内経中級講義』や『針灸学中級講義』も同様です。現代中医学の骨格は、この第1版教材で築かれました。現在、日本と中国の鍼灸治療に左程の齟齬が無いのは、以上の歴史的経緯が背景にあります。
(つづく)
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
令和3年(2021年)8月20日(金)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在75年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。