東洋医学とは何か 52 -第2次世界大戦・大東亜戦争が日本の医療制度に変革をもたらした-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
◆◆ 日本の伝統医療は、江戸時代「本道」と言われていましたが、明治時代に近代医学が導入されてから「本道」は「漢方」と言われるようになりました。「漢方」とは鍼灸治療・瘀血治療・柔道整復治療・薬草(漢方薬)治療・あん摩治療・食養法・運動療法等を指します。◆◆
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
今回は、「鍼灸治療」の話4回目です。鍼灸に関する事柄は、歴史が長く中国や日本における医療の中枢を担って来たので、数回に分けて書いています。「東洋医学とは何か」65は太古の頃から飛鳥時代までの鍼治療、66は江戸時代に入る頃までの鍼治療、67は江戸時代に入る頃までの灸治療について書きました。68は、江戸時代以降の鍼灸治療についてです。
鍼治療は、古来膿などを切開する外科治療として行われていました。太古の頃より日本で独自に行われていた医術に400年頃(古墳時代)朝鮮半島から中国で行われていた鍼治療や灸治療が齎されて日本と中国の医術が融合、701年(飛鳥時代)には『大宝律令』「医疾令」が制定され国家医療として用いられるようになり、「針師(はりし)」がそれを担いました。針博士(はりはかせ)丹波康頼が朝廷に医学書『医心方(いしんぽう)』(国宝)を献上した984年頃には、鍼灸治療は外科疾患だけではなく内科疾患にも用いられるようになっていました。医師は、薬草治療、鍼治療、灸治療、瘀血治療、按摩治療(骨折などに対する治療)、温泉治療や養生を含めた運動法を総合的に行っていましたが、薬草を中国や朝鮮から運ぶためには困難が伴っていたため、医師が行う薬草治療は一部の限られた人達にしか行われませんでした。国内の薬草を用いた治療(和漢薬と言われる)が生まれ、針師は様々な疾患に鍼治療と灸治療で対応しようとして新しい治療道具や手技を生み出しました。
安土桃山時代から、日本独自の鍼灸医術が誕生し、明確な日本化が始まりました。
日本鍼術の方法は、中国伝来の撚鍼(ひねりばり)術、御薗意斉の打鍼(うちばり)術、杉山和一の管鍼(くだばり)術、が三大主流と考えられています。
撚鍼(ひねりばり)術は、中国において主流をなす鍼術です。現在の日本では撚鍼(ねんしん)法、中国では1960年以降提挿(ていそう)法と呼ばれています。
打鍼(うちばり)術は、御薗意斉の高弟藤木成定が寛文11年(1670年)に針博士となり京都や駿河守となった駿府地方で広く教育したことから、関西や東海地域で広く行われました。
管鍼(くだばり)術を発明した杉山和一が将軍綱吉を治療したことから、天和元年(1681年)に関東総録検校となり、鍼治講習所で多くの門人が学びました。検校(けんぎょう)とは、盲官(盲人の役職)に送られる最高位の称号です。門人の三島安一が講堂を増設し、江戸近郊(千住、板橋、新宿、品川)のほか諸州45か所に増設したことから、杉山流鍼術は天下に普遍し、爾来鍼術を業とする者は殆どその門下に関係する人となりました。杉山和一が発明した鍼術をする時に用いる針管(しんかん)は、現在中国を始め世界中で用いられています。
ちなみに、清野は、20年ほど前に世界鍼灸学会で発表する時、「針管」を説明する英語がなかったため「Guide Tube」と命名しました。今では、この言葉が世界中で使われています。しかしながら、「針管」は、日本人が考案した道具なので、数年前より「SHINKAN」と言っています。「SHINKAN」と言った後「SHINKAN‘s mean is Guide Tube」というようにしています。日本人が考案したものは、全て日本語で言うようにしていますが、近年は、欧米で小児鍼(しょうにしん)は「SHOUNISIN」と言われていますし、日本の鍼灸は「SHINKYUU」と言われています。「JUDO」や「WAZAARI」のような感覚で言っているようです。中国の鍼灸は「TCM(Traditional Chinese Medicine 中国伝統医療)」と言われていますが、中国と日本では違うことが行われているのを、外国人の方が良く認識しています。
灸術も、杉山和一の鍼治講習所で、広く教育されました。
艾(もぐさ)を手で小さく捻ったものを指す艾炷(がいしゅ)で治療するようになったことは、治療技術の進歩をもたらしました。艾炷の大小や壮数を工夫することにより、対象とする疾患を拡大出来たと考えられます。
それまで、有痕灸(ゆうこんきゅう)という、艾をすべて燃やしてしまうことから、皮膚に火傷の後が残る方法しか行っていなかった時代に、無痕灸(むこんきゅう)という皮膚に痕が付かない方法を用いる様にしたことにより、途中で艾を取り去る、艾と皮膚の間に何か置くという方法が、数多く発明されました。温紙を皮膚上に置き、生姜、人参、味噌、墨などをその上に置く、様々な方法が行われました。
また、艾に硫黄や黄柏などの粉末を混ぜる薬艾という方法も行われました。
艾炷を作るためには、小さく捻ることが出来る艾の製法が求められます。日本で製造されている艾は、極めて繊細です。小さく柔らかく捻ることにより、与える熱の温度を低く抑えることが出来ます。昭和初期まで、日本には50以上の艾工場がありました。灸治療を支える艾(もぐさ)を作る技術が、日本独自の灸治療を生み出してきました。日本の灸治療は主に日本だけで行われています。杉山和一、名古屋玄医や後藤昆山らは、鍼治療より灸治療の方が病を治すために有効な治療法と考え、好んで用いていた記載が有ります。清野本人も、器質疾患を伴う病は、灸治療が有効だと考えます。鍼治療では困難だと認識して、日々の診療を行っています。現在、中国ではごく一部の灸治療以外行っていない状況です。日本の灸治療を教育する環境が整っていないことが、原因として挙げられます。
江戸時代末から明治初頭、患者に対する治療法は、西洋医術も加え、薬草治療、鍼治療、灸治療、瘀血治療、整骨治療(骨折などに対する治療)、あん摩治療、温泉治療や養生を含めた運動法を総合的に選択して行っていました。医療システムとしては、理想的な状態だったと言えます。同時に、本道(ほんどう・内科)と言われていた治療水準は、極めて高いレベルにあったと考えられています。
明治時代になり、明治政府はドイツ医学を中心とした医学教育を決めました。同時に、本道(内科)は排除されました。日本の伝統医術は医療の本道・中心ではなくなり、その後「漢方」と言い換えられるようになりました。明治7年(1874年)に、日本初の医療制度である「医制」が出来ました。701年に出来た医官制度以来、わが国2度目の変革です。この制度は、医師を中心とした制度です。
漢方の一部である鍼灸師制度や按摩制度が制定されるのは、明治44年(1911年)です。中国では、日本より50年ほど早い1822年に鍼灸治療は国家医療ではなくなり、西洋医学が急速に導入され伝統医療は衰退して行きます。次回は、この時期の歴史に言及します、
(つづく)
※本文中、針と鍼を使い分けています。針は正字、鍼は異体字です。
中国では、「針」以外用いません。
日本では、「鍼」を用いています。
鍼は、「金」と「咸(かん)」で構成されています。「咸」は大事な物という意味です。「金」は金属またはお金の意味から大事なものとしても考えられます。鍼の字は、医術を行う上で大事な道具(はり)や治療法(医術)の意味と捉えていたために、多くの医者・知識人がこの字を好んで用いたのではないかと思われます。
清野は、針は道具を表す言葉として用いています。そのため、毫針を毫鍼とは書いていません。
鍼は、技術を伴う時に用いています。そのため、鍼術と書き、針術とは書いていません。
本文中、「針師」と書いているのは、当時の文献に従っています。中国の制度を模倣しているので「針」の字を用いていますが、時代が下ると鍼医に変わっています。
参考文献 『明治前日本医学史』第三巻 日本学士院編 日本学術振興会刊
令和3年(2021年)6月28日(月)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記
清野鍼灸整骨院は1946年(昭和21年)創業 現在75年目
※清野鍼灸整骨院の前身である「清野治療所」は瘀血吸圧治療法を主体とした治療院として1946年(昭和21年)に開業しました。清野鍼灸整骨院は、「瘀血吸圧治療法」を専門に治療できる全国で数少ない医療機関です。