東洋医学とは何か 44 -医療体制に変換をもたらした明治36年制定の「医師法」-
こんにちは、京王線新宿駅から特急2駅目約15分の調布駅前にある清野鍼灸整骨院院長清野充典です。当院は、京王線調布駅前で、鍼灸治療、瘀血治療(瘀血吸圧治療・抜缶治療・刺絡治療等)、徒手治療(柔道整復治療・按摩治療等)、養正治療(ヨーガ治療・生活指導)等の東洋医学に基づいた治療を、最新の医学と最先端の治療技術を基に行っています。京王線東府中駅徒歩3分の所に、分院・清野鍼灸整骨院府中センターがあります。
清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/
私は、「鍼灸を国民医療」にすることを目的に、東京大学、早稲田大学、順天堂大学等の日本国内を始め、海外の様々な大学や医療機関の人たちと研究を進めています。明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師や様々な大学・学会での経験をもとに、患者様や一般市民の皆様に東洋医学のすばらしさを知って戴く活動を行っております。
「本道(ほんどう)」と呼ばれていた鍼灸治療、薬草治療、整骨治療、按摩治療等の医療は、明治期に「漢方」と呼ばれるようになりました。明治17年(1884年)1月1日に行われた第1回医術開業試験以降、西洋医学一辺倒になりましたが明治44年(1911年)8月14日には「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」が制定され、漢方の一つである鍼灸術や按摩術(あん摩)は、正式に国家の医療として復活しました。
今回は、江戸時代までにはなかった名称である柔道整復術や昭和時代に出来た柔道整復師誕生の話です。
柔道整復治療は、元をたどれば按摩治療のことを指します。按摩治療とは、701年に制定された『大宝律令』「醫疾令(いしつれい)」第一條に「按摩」の文字が記載されている、古くから我が国で行われている医療です。日本で最初の「医制」であるこの制度は、中国の唐代を模倣した制度ですが、この内容は、春秋戦国時代頃に書かれたとされる『周禮』という本の医制度と同じです。「醫疾令」には、あん摩や骨折・外傷に対して瀉血し包帯術を行う者は、按摩師となっています。奈良時代の『大宝律令』は現存しませんが、その後に書かれたほぼ同じ内容である『養老律令』の医制度は江戸時代が終わるまで制度上継続していました。
その後、戦国時代には武士の中から「金創医(きんそうい)」という外科医、各藩や民間に「整骨医」「接骨師」という骨折等外傷を治す医者が現れました。江戸時代は、骨折や脱臼を治す技術は「整骨術」と呼び、医者は「整骨医」と言われていました。整骨医は、接骨師とともに、徒手整復術今の柔道整復術を用いて治療を行っていました。骨折等の重病患者には、状態により局部麻酔をかけていました。麻酔薬として使用していたのは薬草を組み合わせたものです。1804年10月13日に華岡青洲が行った全身麻酔薬は、「通仙散(つうせんさん)」別名「麻沸散(まふつさん)」という薬草ですが、その40~50年前にはすでに麻酔薬を用いて外科手術を行っていました。整骨医は、中国医術に西洋医術を取り入れ、よりよい医術を作り出していました。
解剖学も、従来の中国からもたらされた医書(解剖図)との融合を図り、日本化が進みました。1800年代前半には、西洋医学と本道(漢方)は医術の両輪となり、双方を学ぶ医者が増えていきました。1808年に二宮彦可が著した『整骨範』は、漢方医・蘭方医ともに高い評価を得ました。整骨術は、医術・学問ともに最高水準にあったと言えます。華岡青洲の弟子も整骨法に蘭方を合わせた整骨術に関する本を書いています。江戸の千住において、素朴名倉弥次兵衛直賢が1764年に整骨科を標榜して以来、整骨科は一般化していきます。佐倉順天堂医院でも整骨科を標榜していました。
江戸時代は、外傷に対して高い医療水準にあったことから、西洋医学が安政4年(1857年)に長崎・出島にある長崎奉行所西役所で開講され、日本最初の西洋式病院である長崎養生所が設立されても、近代医学の外科部門は大きな広がりを見せませんでした。
大きな転機となったのは、戊辰戦争(慶応4年/明治元年(1868年)- 明治2年( 1869年))です。負傷者が多数出る中で、西洋医術に基づく銃の処置方法は、大きな効果を発揮しました。今まで書物でしか学んでいなかった蘭方医や新政府は、西洋医術を再評価します。その時、初めて天皇家の紋が入った「病院」の二文字を掲げた野戦病院が登場します。初代の病院長は、長崎で医学教育したポンぺ・ファン・メールデルフォートに近代医学を学んだ順天堂大学2代目堂主の佐藤尚中(さとうたかなか)です。佐藤尚中は、大学東校(のちの東京大学医学部)の初代責任者になりました。
明治2年(1869年)に、明治政府はドイツ医学をモデルとすることを決めました。順天堂大学3代目堂主となる佐藤進は、明治7年(1874年)にドイツのベルリン大学医学部で学んだ日本人第1号の医師として帰国します。佐藤進は、明治10年(1877年)に西南戦争で負傷した多くの患者に対し、大阪に出来た大阪陸軍臨時病院長として、外科技術が高い評価を得ます。ドイツ医学を中心とした日本の医学教育は、明治7年に発令した「医制」制度内で、本道・漢方を学ぶ必要のない医術と位置付けました。
明治7年(1874年)に「医制」が始まった際、整骨医は暫定的に医師と認められ「整骨科医」となりましたが、西洋医学を学び試験を受けることが義務付けられていました。合格者には「医術開業許可ノ證」を交付していました。医制が発令されたとき、整骨医に整骨科の標榜を義務付けたのは当然の流れと言えます。しかしながら、西洋医学を主体とした医療体制を作りたい明治政府は、外傷に対して、鍼灸治療や薬草治療(外用薬・内服薬)を併用している整骨医を認めるわけにはいかなかったようです。整骨科標榜者数は、明治13年は326名、明治14年は366名、明治15年は387名、明治16年は352名でした。医制が発令されたとき、整骨医に整骨科の標榜を義務付けましたが、明治17年(1884年)に、交付書を所持している者には「整骨科医術開業免状」が交付され、一代に限り既得権益として身分が保証されました。江戸時代の整骨医は、「整骨科医」となりました。
明治17年(1884年)に医師が国家試験で誕生したのち、「整骨科」の標榜は、禁止されました。ドイツ医学を中心とする方針の明治政府は、701年より1885年までの間わが国で行われてきた整骨治療を、医療の中心から遠ざけました。これ以降、単科医術開業者は、歯科に限られるようになりました。
試験に合格していない「整骨科医」には、明治18年(1885年)3月23日に「入歯、歯抜口中療治接骨営業取締方」が内務省より出され、整骨科の標榜者は、「従前接骨業」者となり、取締を受ける立場になりました。この人たちは、西洋医学を学ぶことに抵抗があった整骨医・接骨師でした。
整骨医の行っていた医術は、柔道整復術を除き、ドイツ医学を学んだ外科医が行う医術と位置付けられました。骨折・脱臼等の患者を治療していたのは、外科医です。当時は外科手術を行う環境が現代のように整備されておらず、外科技術も十分普及していなかったため、骨折患者の死亡率は極めて高い状況にありました。近代的な医育教育が定着し、東京大学医学部以外に、各県に公立の医学校や医術開業試験を合格するために設立された済生学舎(現順天堂大学跡地)により、急激に洋方医(医師)が育成されました。「整骨科」の標榜に続き「接骨科」の標榜も禁じられた漢方の一部である徒手整復術(柔道整復術)が復権することは極めて困難な状況でした。
当時「従前接骨業」者として、主に営んでいたのは、柔術家でした。おりしも富国強兵の名のもと、軍隊に柔術と剣術が採用されます。明治44年(1911年)8月14日には「按摩術営業取締規則」の中に、「柔道の教授を為す者が打撲、捻挫、脱臼及び骨折に対して行う柔道整復術に準用すること」との文面が付け加えられた事により、柔道家は按摩師として開業する事が出来るようになりました。このことは、生活に困窮している柔道家の救済策の意味合いがありました。軍隊に柔術と剣術が採用されたことにより、当時の権力者たちに柔道家が働きかけたことは言うまでもありません。柔術を柔道に変え、普及させた嘉納治五郎の存在は、とても大きかったと言えます。
近代整形外科を初めて専攻したのは、明治28年(1895年)にドイツのハイデルベルグ大学に留学した林曄(はじめ)です。明治30年(1897年)に帰国して築地に林病院を開設しました。整形外科は、外科の各論でしたが、「矯正術」と翻訳されていましたので、林曄は「外科矯正術」と言い、文部省では「外科的矯正術」と呼称していました。
「整形外科」を学術用語として定めたのは、東京大学医学部外科整形術主任の田代義徳です。明治33年(1890年)6月9日から明治37年(1894年)3月24日までドイツに留学し整形外科、整形外科的マッサージ、理学療法を取得して帰国しました。明治39年(1896年)4月4日に東京大学医学部で整形外科の開講公示があり、田代義徳は同年5月9日に整形外科主任教授に就任しました。日本で最初に整形外科教室が新設されたのは、明治39年(1896年)10月11日です。新科目は、漢学者永坂石埭との合議で決定されました。外科整形術から整形外科として独立した後、田代は多くの整形外科医師を育成し、大正15年(1926年)4月3日に、第1回日本整形外科学会が開催されました。
整形外科の独立と並行して、「従前接骨業」者たちの医術復興活動が並行して行われ、柔道整復術が法律上明記されるのは、大正9年(1920年)4月21日です。整形外科医が行う治療は、観血療法による外科手術が主であることから、徒手だけで行う外科手術は、軍隊内(戦場)で有効だとの判断があったことは、柔道家の救済以上に意義あることだと認識されたことは言うまでもありません。しかしながら、従前接骨業を営む柔道家達は、按摩師と言われる事に、抵抗感を持っていました。701年に『大宝律令』の中に書かれていた按摩の時代と徒手整復術が出来た経緯と時代が異なっているためです。
そもそも、外傷に対する医術は、414年の新羅の金武来朝まで遡る歴史ある技術ですが、柔道整復術は、1619年に中国から来た陳元贅がもたらした中国武術に、日本の柔術が融合し、中国整骨術と日本の柔術整骨術が源流となっていることに由来するからです。柔道家たちの運動が実り、大正9年(1920年)4月21日に内務省より発令された内令九により、「按摩術営業取締規則」が一部改正され、「接骨師が行う接骨術は認め難いが柔道家が行う柔道整復術なら妥当」とされ、按摩術の一部として正式に組み入れられました。
徒手整復術が、柔道整復術という呼称に替わり初めて法律に登場した時でもありましたが、徒手整復術が認められたことにより、本道・漢方は、薬草治療(漢方薬)以外国家医療として復活したことになります。
これにより、柔道家たちは、「接骨師」から「柔道整復師」と名称を変えた資格成立に向けて動き始めます。明治政府は、江戸時代に行っていた整骨医や接骨師の医術は、医師(外科医・整形外科医)が行うこととしたため、この名称は認めがたいという立場にあったことから、昭和23年(1948年)12月20日に「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が制定された際も、柔道整復術は「従前接骨業」以外は認めない事になっていました。昭和26年(1951年)4月1日に、「あん摩師、はり師、きゅう師、柔道整復師等営業法」に改正され、柔道整復師という新しい名称の資格が誕生しました。柔道整復師は、厚生大臣の指定する学校を卒業して資格試験に合格した者に免許が与えられることになったことにより、徒手整復術を行う整骨医・接骨師が、柔道整復師に名前を変え、正式に国家医療を担う医者として認められることになりました。柔道家たちの活動と非観血療法による外科手術の有効性が認められた結果と言えます。
従来、柔術家が行っていた整骨術は、江戸時代に中国の整骨術やヨーロッパの矯正術を融合しながら独自に発展を遂げた日本固有の医術です。骨折や脱臼等に対する医術は、日本固有の伝統医療であることを、平成13年(2001年)に世界保健機構(WHO)が定義しています。柔道整復師は、緊急性を要する際にレントゲン撮影をすることが可能です。歴史的背景を考えると、整形外科医と連携を取りながら、「観血療法 による外科手術」か「非観血療法による外科手術(徒手整復術)」の選択を、患者様とともに協議した上で術式を決定する医療体制が望ましいと言えます。
骨折や脱臼などの外傷に対する治療は、按摩治療から外傷に対する整骨術が独立して細分化されました。江戸時代に飛躍を遂げた整骨術は、伝統的な薬草を用いた麻酔、薬草を練った外用薬や薬草治療以外は、昭和初期に医師や柔道整復師が担う制度になりました。医師は、すべての医療行為が出来ます。しかしながら、伝統的な薬草を用いた麻酔は現代医学における麻酔発達した現在においては過去の位置付けに置かれていると思われます。薬草を練った外用薬は、膏薬として民間に存在しています。外傷に対する薬草治療は行われていないと思われますが、研究対象として見直されても良い分野だと考えます。
以下は、日本医史学会 で発表した論文です。『日本醫史學雜誌』 に掲載されています。
『日本醫史學雜誌』第64巻2号135頁 通巻第1570号 平成30年6月20日発行
第119回日本医史学会発表掲載論文 平成30年6月2日・3日
「柔道整復術について」
清野充典
順天堂大学医学部医史学研究室
【はじめに】
柔道整復術は、701年に制定された『大宝律令』「按摩」の医術制度にまで遡る。「按摩」術は、「あん摩」・「指圧」・「柔道整復術」や整形外科医が行う医術を包括した医療技術である。江戸時代、柔道整復術を行う医者は、「整骨医」・「接骨師」・「骨つぎ師」と言われていたが、明治7年( 1874年) 8月18日に「医制」が施行された際、整骨医は医師国家試験合格後「整骨科」を標榜した単科の医師となり、「接骨師」・「骨つぎ師」は医者と認められなくなった。明治44年8月14日「按摩術営業取締規則」が制定され、大正9年4月21日に内務省より発令された内令九により、按摩術営業取締規則が一部改正された。「接骨師が行う接骨術は認め難いが柔道家が行う柔道整復術なら妥当」とされ、按摩術の一部として組み入れられた。昭和21年12月29日に「柔道整復術営業取締規則」が施行されたことにより、接骨師は、柔道整復師と名前を変え、療術行為・医業類似行為からの脱却を果たした。柔道整復術について述べる。
【本文】
整骨・正骨を行う役職は、文献上『養老律令』(718年)「律」・「令」の十巻「職員令」にある骨関節損傷を取り扱う専門職「按摩」に遡る。その内容は「医疾令」にあるが現存しない。『政事要略』(1008年)巻九五「医疾令」には、「按摩生は按摩傷折方及び判縛の法を学ぶ」とある。『令義解』(827年)には 按摩業務(判縛)について細かく記載されており、「判縛とは、骨折部位に対し鍼を用いて瘀血を取り除き、状態が重篤な時は患部を固定、あん摩・導引を施し、損傷部位の機能を回復させることである」とある。その後、遣唐使等が齎した医書は殆ど散佚しているが、鍼博士丹波康頼が著した『医心方』(982年)巻十八に、創傷治療と骨関節損傷治療が記載されている。日本で最初の正骨専門書は、大坂難波村の高志鳳翼が書いた『骨継療治重宝記』(1746年)である。儒学を学び中国の正骨書を熟読して正骨術を会得した人とされている。日本柔術救急法に由来する整骨術は、柔術家に特有な救急処置である。1619年長崎に来住した中国人陳元贇(げんいん)の中国拳法を、門人三浦義辰が日本的に体系化した攻撃法と救急法が基となっている。整骨術は、江戸時代中期に、柔術を背景とした3大流派が、長崎大坂江戸で発生した。代表的な書物は、吉原元棟著『杏蔭斎正骨要訣』である。上巻のみ完成したこの書物を、元棟の弟子二宮彦可が1808年に完成させた。書名は、『整骨範』である。進歩的な漢蘭折衷医である二宮彦可は、中国と日本の解剖学知識・薬物学・西洋の包帯法を参考として、漢蘭和の整骨術書を完成させた。『整骨範』序文では、幕府医学館の多紀元簡(漢方)と幕府西洋外科医官の桂川国瑞(蘭方)が、漢蘭折衷派の代表的整骨専門書として見做せると言っている。1746年以降、日本独自の整骨書が次々発刊され、固有の技術が生まれている。1805年に乳腺腫瘍摘出手術を成功させた華岡青洲の華岡流外科必修4大科目は、「整骨術」・「内外治法」・「金創治方」・「産科奥術」である。外傷に対して、徒手整復法を重視し、漢方薬や麻酔薬を用いる日本の伝統的整骨術は江戸時代に確立したと言える。明治13年1月1日に第1回医師国家試験が行われた。全国の「整骨科」標榜者数(内務省衛生局年報)は、明治13年326名、明治14年366名、明治15年387名、明治16年352名である。大正元年(1912年)萩原七朗が接骨師の復権運動を行い、柔道接骨術の講習会を開催した。接骨師が行う接骨術は認め難いが柔道家が行う柔道整復術なら妥当として、大正9年(1920年)4月21日に内務省が按摩術営業取締規則を一部改正した背景には、当時の社会情勢において柔道家の生活が不安定であったことに対する救済策の意味合いがあった。三浦勤之助(東大医学部教授)の助力により柔道有段者に接骨の業務を公認し、約3000人の接骨師(呼称は按摩師)が復権した。同時に、整形外科専門医の不足により社会的要求に応えられていなかったことが背景の要因としてある。整形外科が外科から分科したのは、大正15年(1926年)4月である。整形外科分野は、フランスのアンドレが提唱した整形学『整形学 小児期の身体変形を予防矯正する術 父母および小児を持つすべての人々の座右に』(1743年)が最初とされる。矯正術は日本の整体術と大きな違いがなかったため、医制後整形外科専門医の志願者が少なかったのではないかと推測される。現在の整形外科は、外科の一分野といえる。
【結語】
柔道整復術は、日本古来よりある「按摩術」から発展して、江戸時代に体系化された日本固有の医療である。「整骨医」と「接骨師」・「骨つぎ師」が連携を取って診療していた江戸期の医療体制は、柔道の救命法を基礎とした技術である徒手整復術の発展に大きく貢献した。包帯術や骨学の知識を重視して漢蘭を折衷した考えは、現代の医療体制に大きな意味を齎すと考える。明治2(1869)年に明治政府発行旅券第一号を持ってドイツに留学し、明治7(1874)年にアジア人として最初のベルリン大学医学部卒業生で順天堂大学第3代堂主だった佐藤進が、ビルロート著『外科総論』(1874)第5巻の『外科通論』を1876年に翻訳した際に用いた骨折・脱臼は、日本に定着した和製漢語である。柔道整復術は、日本固有の医療であり、骨折・脱臼・捻挫・打撲・挫傷等の外傷に対し、徒手にて整復することが可能な、非観血に行える外科手術である事を結びとしたい。
その他の論文等をご覧になりたい方は、 清野鍼灸整骨院HP http://seino-1987.jp/ 内の「東洋医学の辞書サイト」→「研究業績・刊行物・メディア」をご覧ください。(つづく)
「第121回日本医史学会学術総会抄録号が発刊 私の論文が8年連続採択されました」 https://seino1987.tamaliver.jp/e477788.html
※上記は、清野が長年調査した内容です。参考文献は多岐に亘っています。ここに列記すると大変な量になりますので、ブログという性格上割愛させていただきます。論文としてご愉快雑誌に投稿もしくは出版しますので、ご興味がおありの方は、そちらをご覧いただきたく思います。
令和3年1月8日(金)
東京・調布 清野鍼灸整骨院
院長 清野充典 記