”言語化”スキルを磨く ~マイベストプロコラム執筆で得たノウハウ~
皆さんは定期的に健康診断を受けられていると思います。中には精密検査を受けなさいという通知を受けたり、保健師さんや栄養士さんの指導を受けた方もいらっしゃると思います。私は充分に年齢を重ねているので、全く問題ないということは極めて稀で、いくつかの項目で異常を指摘されることが多くなってきました。また、健康診断で指摘されるほどのレベルではありませんが、以前と比較すると身体能力が低下してきていると自覚しています。分かりやすい例ですと、視力の低下によってモノが見えにくいとか、少し運動をすると辛くなるとか、膝が痛くなるとか、とっさの判断力が低下しているとか、挙げ始めるとキリがありません。
長寿県の長野で1980年代に健康長寿体操として『ピンピンコロリ運動』が発案されたことから、ピンピンコロリという標語(『病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝込まずにコロリと死ぬこと、または、そのように死のう』という標語。 略してPPKという。)で後押ししているように、健康寿命を延伸させようという運動が全国に伝播しているようです。島根県においても、『人口減少に打ち勝ち、笑顔で暮らせる島根』の実現を目指し、令和2年度から『しまね健康寿命延伸プロジェクト』が開始され、県民自ら健康づくりに取組めるような環境整備を進め、『健康長寿しまね県民運動』として展開を強化し、健康寿命の延伸を図っておられます。
健康であるとは
テレビの通販番組などで、〝脚の筋肉をサポート!〞が謳い文句の機能性食品とか〝ひざ関節をスムーズに動かすサポート!〞をアピールした座ったままウォーキングができる足踏み運動器具などが販売されています。これは、何かを食べたり飲んだりすることで脚の筋肉をサポートして欲しいとか、座ったまま脚を鍛えたいという人が一定数存在するという証拠でもあります。私の家には、猫背や巻き肩、ストレートネックなどの姿勢改善のためのぶら下がり健康器(今では衣紋掛けになってしまった)があります。忙しい中で手軽に健康を手にしたかったことの表れとも言えます。少なくとも、誰しもが日々を健康に過ごしたいと思っているに違いありません。
WHO憲章では、健康を次のように定義しています。『健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。』厚生労働省は『「健康」といえば、まずは身体的なものを思い浮かべることが多いのではないだろうか。しかし、ただ表面上病気でなければいいというものではない。肉体的にも、精神的にも、更には社会的に見ても、全てが良好な状態でなければ、健康とは言わない、ということだ』と厚生労働白書で補足しています。そんな人って、そう多くはないだろうというのが素直な感想です。
健康寿命
健康寿命は『健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間』とされています。また、『日常的・継続的な医療・介護に依存しないで、自分の心身で生命維持し、自立した生活ができる生存期間のこと』を指す場合もあるようです。私見ですが、WHO憲章の健康とは微妙にニュアンスが異なる印象を受けます。恐らく私の解釈が足りないからだと前置きした上での話ですが、高齢となった時の私が、”健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できている”として、それで健康かと問われたら、違うと答えると思います。また、”日常的・継続的な医療・介護に依存しないで、自分の心身で生命維持し、自立した生活ができていた”としても、やはり同じで、違うと答えると思います。その理由はWHO憲章での定義と異なるからかと問われると、何となく少し違う感じがします。
私の健康寿命
自分の健康寿命のことなので、勝手に思考実験めいたことをしてみたいと思います。例えば、私が何かに熱中していて、寝食を忘れて没頭していたとします。熱中している理由は、私がそれを成すことで、誰かが喜んでくれたり、誰かが褒めてくれたりするからだろうと思います。熱中状態の私は、自分の身体を意識することはないだろうと思います。恐らくその時の私は、たとえ体内で異変が起きていたとしても、健康な状態であると思います。一方、健康診断をしても全く問題のない状態で無人島に住んでいたとします。日々同じように過ぎていく生活で、身体には問題ないでしょうが、恐らくその時の私は健康な状態ではないと想像します。
この勝手な思考実験の結果で分かることは、私の健康状態は、身体の状態だけではなく、何を目的として生きているかに依存しているのではないかということです。私の健康寿命を定義するとすれば、「自分の目的を実現するために必要な身体の状態が維持できている期間」ということになります。必要な身体の状態は、目的によって変わることが分かります。例えば、私が3キロの遠泳ができるようになりたいという目的を持ったとします。遠泳のためには(素人なので詳しいことは分かりませんが)、持久力とともに、省エネで泳げるようなフォームが必要となると思います。そのために練習を重ね、持久力や良いフォームを手に入れて遠泳にチャレンジします。残念ながら、健康診断で視力が悪くなっているという結果が出ていたとしても、その時の私は健康であると思います。遠泳の距離を3キロから5キロ、10キロと伸ばし、それにチャレンジし続けていくでしょうから、健康である期間が長くなり、振り返ってみると、健康寿命が長かったという話になるのでしょう。
そもそも健康寿命という概念は、医療費や介護費の削減という文脈から生まれたものだと思いますので、自分に引き寄せて再定義してみたいと思います。
再定義した健康寿命(私見)
「社会に貢献する目的のために成長し続けることができる期間」と私は定義したいです。社会に貢献というと大げさに考えてしまうかも知れませんが、家族という社会も含めて考えています。例えば、「定期的にハンバーガーとポテトを孫と一緒にハンバーガーショップで食べたい」という目的でも良いと思います。この目的は、子育てに寄与することにつながることですが、そのためにはまず、ハンバーガーとポテトが食べられる身体ではなければなりません。医師から塩分を制限されていてはダメです。ハンバーガーショップに歩いて行くことができないと、折角の孫との散歩が楽しめません。定期的にハンバーガーショップに行きたいので、孫が相手をしてくれる間は、それを維持する必要があります。他にもあるかも知れませんが、目的を達成するためには、成すべきことがたくさんあります。しかし、単純に身体に良いから、塩分控えめの食事にして、1日1時間歩くことにしようというのは、健康を維持し、社会保障費の削減には寄与するでしょうが、私の定義では健康とは言えません。その理由は、健康は手段であって、目的ではないと考えるからです。手段は、目的に応じて変わるはずで、極端に言えば、健康は人によって違うものであって、客観的なデータだけで人の健康状態を判断すべきものではないと思います。
まとめ
健康診断で何も問題がないのが理想ですが、歳を重ねてくると色々と問題が出てきます。しかし今一度目的や生き甲斐を明確にし、その上で目標達成や社会貢献に必要な状態になるように努める方が精神衛生上良さそうです。冷静になって振り返ってみると、私の生活習慣の指導をしてくれた保健師の方は、最初にどんな風に生きていきたいかと目標を確認してくれたような気がしてきました。健康は目的ではなく手段であると、言外に伝えてくれたのかも知れません。