責は諸君にあらずしてこの日比翁助にあつたのである~三越の古典に学ぶ その11~
◎広告されたる日本帝国
日露戦捷の広告依りて近来外国人の日本へ来遊して来る者が増して来た。処で彼等外国人は如何なる観念を以て日本に来るか。日本は山紫水明である。美術国である、極楽国である。として其風光に浴せんとして来るのではないか。
此の如き観念を以て東京に来る。東仲通辺で買物する。あの辺は客種が客種だからまるで召物がない。宿屋へ泊る誠に薄汚くて取扱もぞんざいである。不愉快の中に一週間東京に滞在して皮想な観察を抱いて帰国して仕舞ふ。そうしたならば彼等はどう云ふ感慨を抱くか。日本は風景の国美術の国と思つて居たら、聞いたと見たとは大違で、美術家の無ければ宿屋も汚く、人も無愛想であるとして再び来るものがなくなるであらう。のみならず彼等には不愉快の感を起さしめると日本の事業に投資したり、外債に応じたりするものがなくなるだらうと思ふ。
我々にしてもさうだ。箱根が好い所であるから金を出さう、何を起さうと目論んで行つて見る。所が石は叩き崩され木は伐られはげ山になつて居たら、誰が金を出す者か。山は綺麗で湖水は鏡の如くであつてこそ愉快であるから金も出し設計もする気になるのである。又日光の御霊廟は立派であるからこそ見物にも行く。所が石段は崩れ、軒は傾き、足も踏み入れられない様になつて居たならば誰が日光に行くものか。それと同じ訳である。然も日本に見せる所もないならば是非もないが、見せ可き物は沢山あるのだ。あつても見せないのは甚だ残念な訳である。夫れを見せると見せないとは我々の接待移管にあるのである。故に我々商人は如何に招待すべきかに就ては余程深く考へなればならぬ。
私の店が色々の参考品を備へ、色々の美術品を置き、色々の織物品を列べてあるのは、一面国家の為に外国人接待に供して居るのである。私から云ふのは可笑しいが外国人が店へ来て見たならば、成程日本は面白い国である美術国であると云ふ感じを起すだらうと思う。例へば、茶の湯の式は日本の粋と称されて居るが、併し日本に一週間や二週間滞在する外国人では恐らく之を見るの機会に接することが六ヶしからう。
夫れを朝から晩まで湯が沸いて居るから何時でも湯の式を見せられる。又此竹細工は斯う云ふ所に緻密に意匠を凝らしてあるから二千圓も三千圓もするのだとか、此欫け茶碗は三百年前に豊臣秀吉と云ふ英雄が持つて居たのだから珍重するのだとか、是は斯う云ふ由緒があり、あれは彼云ふ歴史があるのだと説明して聞かして遣れば彼れ等は云ふべからざる愉快を感ずるだらうと思ふ。此点から云へば三越は一面国家の為に設備して居るので、自分は真実此考へを以て経営して居るのである。
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日比翁助専務は、常に公益を図った結果としての企業の繁栄を目指す姿勢を持ち続けていた。