私の店が色々の参考品を備へ、色々の美術品を置き、色々の織物品を列べてあるのは~三越の古典に学ぶ その7~
日比翁助が、「商売繁昌の秘訣」として、単に商品を並べるだけでなく、店舗環境や店員の接客サービスの重要性を指摘していることは、商人の実感であるにせよ、慧眼だと思う。
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◎顧客をして自己の存在を忘れしめよ
併私は客に快感を与ふに就て唯設備を完全にする丈を以て充分と思つて居ない。客をして真に愉快ならしめるには物質上の設備と店員の心掛けと両々相俟たねばならぬと信じて居る。
そこで私は常に店員を戒めて、客を見たならば決して売ろうと云ふ考へを起こしてはならぬ。客をして己れの損座を感ぜぬ様に、空ならしめよ。客自身が、己れは一体何処に居るのか、自分の家に居るのか、買物に来て居るのか、己れの身体を忘れる様にせしめよと云ひつけて置く。
其処に誰が居るとか、彼れが見て居るとか這麼事(こんなこと)をすると番頭の前が具合が悪いとか云ふ様な気を起こさせては宜しくない。要するに、客をして、頗る居心地がよく、恰も楽園を逍遥するが如く自己の存在を忘れしめると云ふのが近世商売上の秘訣である。
私が此設備をなすに就ては由来がある。私が慶應義塾に居た時、ロイド博士が曾て質問したことがあつた。それは人の健康とはどう云ふことかと云ふのである。我々は病気でない時は健康であると答へた。すると博士はそれではいかぬと云ふ。完全なる健康とは自己の身体が空なる時、何も感ぜぬ時が即ち健康である。手が痛いと云ふ時には手と云ふ考へが離れぬ。眼を患つた場合には眼の在ることが忘れられぬ。真の健康と云うものは手や眼があつても無い様に全然自己の存在を感ぜぬのであると云つた。
私は博士の此説に深く感じて此筆法を以て客を待遇して居る。そして客に快感を与へ、自己の家に居るのか、三越に居るのかそれとも楽園に逍遥して居るのか、分からぬ様にして置いて、一方正当なる品物を売つて居るのである。
是では買わねば客が無理だ。縁なき衆生は度し難し、縁あれこと来て下さるのだから、此の如く営業して行けば商店は益繁昌するものと信じて居る。
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「客を見たならば決して売ろうと云ふ考へを起こしてはならぬ。…」
お客様に買い物に来ていると思わせないよう、自然体の状態でお過ごし頂けるように配慮せよ、という教えは「買い物体験」の重要性を指摘しているようで、今日でも意味のある指摘であった。