斯くして私は店の信用を維持す ~三越の古典に学ぶ その16~
昨年2023年は三越の前身である越後屋が創業して350周年だった。企業の「寿命は30年」と言われる中にあって、350年というのは長寿企業であることは間違いない。もちろんさまざまな紆余曲折もあった。最も大きな変革は1904年の株式会社三越呉服店の設立であったと言える。明治維新を迎え、越後屋呉服店は旧来からの顧客を失い、商品仕入も厳しくなり、経営危機を迎える。三井家は銀行設立に際して政府より「不振の呉服店の分離」を求められ、三井家から新たに創立した三越家へ譲渡された。この時に店章が「丸井桁三」から「丸越」に改められる。1893年に三越家当主の三越得右衛門は三井姓への復帰が認められ、「越後屋」は「合名会社三井呉服店」へと改組した。しかし、呉服事業については規模が小さく、成長が期待出来ないことなどから、三井家の事業再編の中で分離独立させることが決まった。これが三越呉服店である。
その時、新生三越呉服店の実質的なトップとして経営改革を推進したのが日比翁助専務である。1904年12月には三井呉服店より全ての営業を引き継いだ三越呉服店は、顧客や取引先に対して挨拶状を送付した。この内容が有名な「デパートメントストア宣言」である。三越の歴史を紹介する文献の中には「デパートメントストア宣言」を1905年とするものが少なくないが、これは1905年1月2日に掲載した新聞広告のことであって、1904年が正解である。
実際の表現は以下の通り。
「…当店販売の商品は今後一層其種類を増加し凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用辨相成候様設備致し結局米国に行はるるデパートメントストーアの一部を実現可致候事」
当然のことだが、1904年12月時点ではデパートメントストアは実現できていない。この時点では店舗は土蔵造2階建、1900年に全館を陳列場に変更したばかりであり、取扱商品も限定されていた。実際に百貨店としての体裁(取扱商品・陳列場・店舗環境)が一応整うのは、1908年4月の仮営業所(木造ルネッサンス式3階建)の開店、そして本格的には1914年10月の新館(鉄筋コンクリート地下1階・地上5階)の開店を待つことになる。ちなみに、日本橋の白木屋は1903年に3階建店舗を完成、全館陳列場化を図り、1904年に取扱商品を洋服や雑貨などまでに拡大していることから、日本で最初のデパートメントストアは白木屋であると捉えることが出来る。この点については岩橋哲哉(2019),「日本で最初のデパートメントストア開店についての考察-商品・販売方法・建物視点での分析と開店能力の検証-」『日本マーケティング学会ワーキングペーパー』Vol.5,No.6に詳しい。
次回からは、日比翁助述『商売繁昌の秘訣』から取り上げていきたい。なにかと新しいバズワードが飛び交う昨今だが、商売の原点に帰ってみると今の経営に活かせる内容もあると思う。ぜひお読み頂きたい。