精神分析は精神科学に基づき心の病を癒し人間の謎を解き明かす第一章-1
第四章 欲望とa 『5_対面』
心が止まる、何も感じないとは

孤立と孤独が違うように、欲求と欲望は当然ながら意味が異なる。それは四章-4で述べた通りである。生理的欲求の充足なしに、生命としての人間は生きられない。
では欲望は持たなくても生命とは関係ないので生きられるのか。いや欲望は生きている、生きて行く意味を表す心の欲動で、この心的エネルギーは作動しなければ、心と精神は死んでしまう。動かなくなるとは、心が止まる。即ち何らかの精神活動が0になるということである。
心が動かないとは、認識も感情も生じない。何も感じないということ。美しいも、楽しいも、嬉しいも、悲しいも、何らの感動も生じないこと。即ち認知症と同様の情況と想像すれば、それは一番近い理解になる。
生きている実感

人間は泣いたり笑ったり、怒ったり悔しがったりして、煩悶懊悩しながら生きていくことが、生きていると実感できる生物なのだ。それが無ければ、生きていることにならない。
その懊悩も、欲望があればこそ生まれる。欲望がなければ、すべては平々凡々に平和に事は済む。現状をあるがままに受けとるだけのことであれば、時間も空間も必要ない。唯時の流れに身を任せ、食べて寝て、出してを繰り返していれば、人は生きていられる。
しかし、それで済まないのが、人の心である。目に見えない、未来に何かを描き、それに向かって生きていく構造を欲望として持っているのが、人間なのである。持っているからそれを手離すことも、持ち続けることも出来る。本人の意志次第である。
したい事だけして生きていけるのなら、これほど楽しい所はない。現実は生活していく為に稼がなければならない。好きな事だけしていて渡世できるならそれに越したことはないが、多くはしたくないのにしなければならない事で生きて行かざるを得ない。多くは、したい事は金にならない。好きな事をしてお金になるなら、これは最高だが、趣味は大概道楽で終わってしまう。
ミュージシャン、芸術家、エンターテイナー、アスリートのプロ、芸人、職人、研究者などは、好きな事がそのまま稼ぎにつながり生き甲斐に感じながら日々生きている。これは正にラカンのいう、主体が享楽を目指している姿そのものである。人皆須くこうありたいものだが、そうなり難いのが人生である。
欲望は逆さまの形で手に入れる【例】母の愛「温もりと世話」
一には、欲望を持つと言っても、何が自らの欲望となるのか、全く主体は判らない。ラカンは言う。欠如が欲望となって逆さまの形で表れると。それを一例を上げて言うならば、母に抱っこされず、その温もりと、スキンシップと世話を受けてない子が居たとする。その子の欠如は、一言で言えば、母の愛である。
具体的に言えば、温もりと世話である。これを求めた時、子にはそれが欲望となる。この欲望を充足させるには自分を愛し、世話し続ける女性を人を探さねばならない。そして見つからないことに気付き、ならば自分がその理想の母になり、誰かを自分に見立てて世話すれば、その人の喜びと感謝の言葉を貰うことで、その人に同一化し自分をそこに見出し、他者を通して、自分の欲望を満足により達成する。これが逆さまの形で手に入れる方法である。
この形式が永続的に維持するのが、看護師という職業である。職業の多くはこの形式をとり易い。故に職業をアイデンティティーとしている人が沢山いる。皆その人達は人生に夢と希望と目標を持って生きている。人生を楽しみながら生きている。自他共に幸福な時間を過ごし、共に語り合い、助け合って生きている。
人間として生きる道

人は人との交流において、生きていると言える。幸福感も思いやりや共感、愛情や親密さを体験してこそ、人は生きている。人は人との交流において、生きていると言える。その為に心と感情を備えている。AIやPC、SNSで文字を交換したところで、それは人間の心の交流とはいえない。単なる統計学的平均値の文でしかない。
感情を伴った文脈の文章でも言葉でもない。当たり障りのない文字の並びであって、感情や思いやりの一片もない文字に、人は流され、操られ導かれている。
人間として生きる道は一つ、相手を思いやる心で人と対面すること。眼と眼が合って対面という。
4-4『痕跡』⇦ ⇨ 4-6『見えないもの』
➩ セラピストの格言
➩ 精神分析家の徒然草




