無関心は心の病気の出発点!!親の関心を引くために子供は色々なことをする

大澤秀行

大澤秀行

他者が私を欲望するとは、私を意味づけてくれているということを意味します。他者に欲望されないと、意味づけてくれないということを意味します。言い換えると、私は無意味でどうでもいい存在だと言われているのに等しいのです。欲望されないことぐらい無意味な存在を証明する行為は他にありません。

これを日常生活の中でどのようにして味わうかというと、無関心の対象として体験します。関心を持たれないとどうしてもこの無関心を解消するために、関心を引く行為を志向します。これを「注意引き」と言います。子供が病気をしたり怪我をしたり悪さをして親の注意を引くところから、既に無意味の防衛が始まっています。

心の病気の出発点は愛情ではない

人間の心の病気の出発点は無関心です。愛情欠損が心の形成を歪めるのではないのです。愛情でも愛着でも世話行動でもなく、病の出発点は無関心です。

人間を人間たらしめないのは関心を持たれないことです。その時から人間でないものになってしまいます。ラカンの理論は常に人間でないところから始まって人間に終わるという、それは何よりも関心を持たれたかどうかによって決まります。関心を持たれることは、私を人間として認知したという証拠になると、そうシニフィアンは言っているのです。愛情論も愛着論もありますが、やはり中心は関心です。この言葉をおいて他に人間を人間たらしめる言葉は存在しません。

無関心の世界に居る時には無視されている

関心の対極にある言語は無関心です。関心と無関心という二つの文字を成立させるのが眼差しです。無関心の世界に居る時には無視されています。これを精神分析では無化と言うのですが、存在を限りなく無にしていく化学反応を起こしてしまいます。するとどうしても眼差しを獲得したいという方向に思考は働きます。関心が欠如している、存在が欠如している、そして相手の眼に映らない私という、これを称して「透明人間」と言います。

誰の眼にも映ってない、これは心の病気の中でも一番重篤です。自分の存在が相手の眼に映ってない、これを体験した子供は必ずお母さんの眼を覗き込みます。「見てる?」と眼をくっつけます。お母さんの眼の中に自分がちゃんと映っているかどうか、お母さんの黒目のところに自分が反射しているかどうかを見るのです。そこまで行ってしまいます。

愛情の前に眼差しが第一段階

愛情云々を発達論は重要視しますが、その前にまず眼差しが第一段階です。眼差しを向けられたことは愛情があると受け取るのではなくて、関心があると受け取ります。

この関心がもたらすのは追尾です。追尾とは追いかけてくるということです。たまたま視界に入って見えるのも眼差しですが、関心は視界を横切ったので子供の名前を呼んだのとは意味が違います。それは通り過ぎただけです。追尾というのは追いかけていくのです。

追尾するには絶対に必要なことがあります。それは、その眼差しの主体の意志です。何故なら追いかけなければ目線を外れるからです。

ずっと追尾されていると思うとどう思いますか? 見守られていると思いますか? それとも恐いと思うでしょうか? 追尾を後者の意味に捉えると、ストーカーにこれがなります。この追尾をストーカーと取るか関心と取るかです。恐いとは、関心が監視になってしまっているということです。追尾の仕方によって、このようにシニフィアンが分かれます。追尾する目線の眼差しの主体の意志が問題です。監視で追いかけているのか、見守っているのか、同じ追尾でも監視の場合は恐くなり、ストーカーになります。

ところが、見守るために私をずっと追尾していると思えば、関心の高さは見守りになります。すると「いつも」となります。このいつもいつでも見ていてくれているという時間の連続性が私の存在を保証します。時々見たのでは存在論に繋がりません。いつでも見ていてくれているという体験、その時に母の見守る眼差しは存在を支える関心として、そして愛情として意味を帯びてくるのです。最終的には眼差しが消えて母の愛情という言葉が残ります。実はこのように言葉がどんどん変換していきます。

母の愛情という言葉に帰着するのは、最終的にはこの関心と見守りの積分値がもたらした、いつでも私を存在たらしめる眼差しという形で、これを愛情と言っていたのです。関心、見守り、いつでも存在を支えてくれる眼差し、これを全部ひっくるめたものを愛情というのです。だからその出発点の関心が何よりも一番重要視されるのは当然です。

その関心を最も直接的に表現するのがこの追尾する眼差しです。ずっと追いかけてくる、いつも見ていてくれているという、この連続性こそが存在たらしめているのです。こうして母の眼差しは一つの安定感、継続性を持ってきます。これで存在が確立します。

この時に子供は安心して母の眼差しと、さよならできます。要するに、母の眼差しを引き出そうとする無意識的願望を持つことがなくなります。それを放棄できます。母の眼差しの願望の放棄ができないところが欲望と化します。ずっと求め続けてしまうのです。

欲望がある限り、あの手この手を使って関心や眼差しを引き出す

人間の幸せは最終的にその眼差しすら要らないと、その欲望を放棄することです。それを心理学は内在化と言います。私は内在化というよりは意味の放棄だと言います。願望を放棄できるかどうかです。願望がある限り欲望がある限り行為化します。眼差しを引き出そうとして、関心を引こうとして、色々なことをします。関心を引き出す最大の効果をもたらす行為は、心配させるということです。これが最大に関心を引き出す、眼差しを引き出す方法です。その為にはあの手この手を使います。

眼差しの安定と欲望の放棄

最初の主体にあった関心と無関心は、最終的に眼差しの安定と欲望の放棄に行き着きます。そしてより自分だけに関心を持ってほしいという欲望を放棄します。するとその欲望を引き出すための思考は要りません。もっと生産的なものに思考を使えます。コンプレックスは、その欲望のためだけにしか使われない不毛の思考を生み出します。コンプレックスは何の意味ももたらしません。欲望を放棄することにおいて、それからは自分のための心的エネルギーの消費に使えます。もう欲望に振り回されることがなくなります。


⇨ 親の財布からお金を盗る子供の心理
⇨ ラカン理論で解く「強迫神経症」数を数える理由や、治す文字について

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大澤秀行
専門家

大澤秀行(精神分析家)

合同会社LAFAERO1(ラファエロワン)

精神分析家として34年の臨床実績があり、現在もメールや電話も合わせると、一日平均10名の精神分析によるセラピーを行っている。

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