教員の4割、休日の部活動に関わりたくない
「これからの子どもたちのために」と発表した論文です。
吉田洋一 2022(令和4年).3.10
「生きる力」にみる子どもの発達の考察
社会が加速度的に変化する中で、将来の見通しを立てることはますます難しくなってきた。人工知能の普及やインターネットの生活への浸透は、社会や生活を大きく変えることが予想される。このような時代には変化を前向きに受け止め、子どもたちが社会や人生をより豊かにしていくためにはどうすべきかを自ら主体的に考えだすことができる力が必要である。
学校教育においても、新しい学習指導要領(新しい学習指導要領(2020~2023))「生きる力」が作られた。「生きる力」は、これまでの学校教育で育まれるものとは異なるため、現状の子どもたちが抱える課題を踏まえたうえで、学校教育(2008(H20)から取り組んでいる)で育成を目指す「生きる力」を改めて捉え直す必要が出てきた。
こういった背景から、この「生きる力」とは、子どもたちがこれから社会を創り出していくためや社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、そして向き合い関わり合いながら、自らの人生を切り拓いていくために必要だからである。
「生きる力」から何を学ぶかですが、子どもたちが判断の根拠や理由を明確にしながら自分の考えを述べる能力や自分の人生や社会とのつながりを強くし、学習したことを生活や社会の中で活かしていくためである。
今までの教育は、知識は伝達したが、子ども自身がその知識を自分なりに使うことができない知識伝達型の偏重であった。また、ともすれば、計算ができるとか漢字が書けるとかの技能の習熟的な無感動な事務的作業を押し付ける教育であった。また、序列や境界線を作るための評価であり、自己満足の自己評価、人間関係に左右される相互評価、価値観を押し付ける教師評価であった。これでは、子どもの何の力を育てるのか、今までの「生きる力」が何なのかまた中心は誰なのか明確ではなかった。
これまでの学校教育で育まれるものとは異なる「生きる力」は、社会や人生をより豊かにしていくためにはどうすべきかを自ら主体的に考え出すことができる力であるが、この力は子どもが社会的存在へと向かう人間固有の発達に類似している。このような背景から新しい学習指導要領に基づく「生きる力」を含めて、これからの子どもの社会的存在の発達をどのようにすべきか見出していきたい。
動物はみな生物的な衝動・欲求に従って生きている。人間の場合は、生物的に生きるだけではなく、社会的・共同的にも生きているため、その欲求も生物的なものにとどまらず、さまざまな対人的・社会的な欲求が加わるようになる。欲求の社会化にともなって、情動も単純な喜怒哀楽にとどまらず、複雑でデリケートな社会的感情へと発達する。
衝動・欲求は生存を守るために生じるものだから、生物的にはそれに従うのがもっとも適応的な行動のはずである。けれども、共同体を生きている人間は、あえて衝動・欲求、さらに情動をコントロールする必要がある。さもなければ共同社会が成り立たない。衝動・欲求のコントロールとは、社会的な約束(規範)や状況にあわせて、あるときはそれを抑えるべく努め、あるときは満たすべく努めることをいう。この制御力が育たねば社会生活はむずかしい。この制御力は、生得的に備わった生物的な能力ではなく、社会的な学習を通して後天的に培われる、いわば「社会性の力」である。
この子どもの発達は、人間が社会的・文化的につくり出してきた意味や約束を通して世界を知り、人間同士の共同世界としてつくられた世界と関わっていかねばならない。そこで発達のためには、すでに精神発達を遂げている、つまりこの世界を社会的・文化的に共有している人々(養育者を中心とする大人たち)からのはたらきかけが不可欠となる。しかも、大人からのはたきかけだけでなく、子どもの側にもそれに応えたり、子どもの側からも大人へ能動的に関わろうとする力が必要である。この力が乏しければ、大人との相互交流や関係の形成が進まず、発達も遅れる。衝動・欲求・情動のコントロールの不得手さ、つまり「衝動性」がしばしば発達障害の特性とされるのである。
精神医学において、私たちの体験世界をかたちづくり動かしているものには感覚のほか、衝動、欲求、情動がある。生存を守るために行動をつき動かす生物的な力が「衝動」で、それが具体的に「〇〇を求める」というかたちとなったものが「欲求」である。欲求がもたらす強い衝迫、欲求が満たされたときの快感(充足感)、欲求が満たされないときのフラストレーションは「情動」としてあらわれる。
哲学者のジョン・デューイは、学校教育で軽視されがちな、子どもたちの学びの基礎となる衝動として「談話的衝動」と「構成的衝動」の2つを挙げている。「談話的衝動」とは、子どもが持つ社会的な本能であり、自分の経験を語りたい、他者とコミュニケーションをとりたいという衝動を指している。「構成的衝動」とは、何かものを作りたい、形作りたいという衝動を指している。そしてデューイは、この2つの衝動が結びついた衝動として「探究的衝動」という、何かを明らかにしたいという衝動の重要性を主張している。
これらの衝動は、まさに人がルーティンから逸脱して、新たな選択肢を獲得する「知の探索」の原動力になる。特に何かを明らかにしたいという「探究的衝動」は、未だ見ぬ方向へと視野を広げていくためのエネルギーになるのである。個人、チーム、組織の変化を突き動かし、イノベーションの土壌を形成する「知の探索」の本質は、現在の日常を支配するルーティンの枠の外に出て、それまで見えていなかった新しい選択肢を獲得することである。つまり、自分で考える力に他ならないのである。
イノベーションを起こすための事業開発というのは、本来的には、衝動が発揮される創造的な活動である。別の言い方をすれば、何かを作り出すということは、人間にとって、本来的には「楽しくてたまらない営み」である。ところが売上の成果ばかりが求められ、次第に新しい商品やサービスを生み出すことが自己目的化し、「作りたい」という気持ちがあって始めた仕事に、だんだんと衝動が失われていく。それによって、変化の原動力が失われ、既存事業の枠から逸脱する「知の探索」は抑制され、結果として「新結合」が生まれにくくなってしまう。この悪循環が、現代企業のイノベーションを阻害する大きな要因となっているのである。
デューイが学校教育に対して批判をしていたように、企業においても、誰もが持っているはずの衝動に「蓋」がされ、抑圧されてしまっているということが、現代の企業の大きなイノベーション課題なのではないかと考える。つまり、先人が決めた「常識」や過去の成功体験、慣習、伝統、仕組みの中に、私たちが自分らしくあろうとすることを阻み、自立を阻み、可能性を奪うものがある。また、他人の評価や基準を鵜呑みにする。形式に拘る学校や未熟な教員が押し付ける価値観などがある。また、同質性を求め、出る杭を打つ。組織の論理を優先し、個性を軽視する。伝統を重視し、新たな創造を歓迎しない。このような風潮が強いから、未来の展望が見えてこない。自分とは違う人を受け入れること。それが苦手だから、日本人は「国際化」を理解しづらい。
これからの子どもたちに必要なものは、「知の探索」である。自分で考え、述べることである。自分の頭で考えて、自分にふさわしい、自分のやり方を見出すこと。自分の頭で考えて、新しいやり方を創り出し、新たな行動に移すことである。
人と違うやり方で挑戦する力を養うことやそのような人に共鳴すること。過去のやり方は参考にしつつも流されないこと。既存のルールに埋もれず縛られないこと。他人の評価を捨て、自分を肯定する価値観を持つことである。
今後は、前述のように子どもたちに「生きる力」を養わせるための教育や家族、社会が求められるのである。
参考文献
〇文部科学省 新学習指導要領(2020~2030)
〇認知心理学からみた「生きる力」の分析 米澤好史(和歌山大学)
〇子どものための精神医学 滝川一廣著
〇Research Driven Innovation 安斎勇樹、小田裕和著
〇自考 岡田豊著
令和4年7月2日掲載