外でスッキリ
先日、家に帰って来ている母と朝ごはんを食べていた時、
いつものように母が天井を見上げながら、
ゆっくり「お・と・お・さん・・・」と言った。
(父は去年、亡くなっている)
「お父さん、どうしとうかなぁ、元気かなぁ」などと私が言うと、
「さみしい」・・・ぽそっと言った。
えっ?っと、母の顔をみた。
母は、私の顔をじっと見て、「シニタイ」と言った。
それが「死にたい」なのかどうか、よくわからないまま、
次の瞬間はもう食べかけの梨のほうに気がいって、
ガサゴソしだしたのだけれど。
「さみしい」、「シニタイ」
たしかにそう聞こえた。
永年連れ添った夫を亡くした妻が、
時間が経ってさらにさみしが募り、
死にたいと口にしたとしても、それはごく自然なこと。
なのに、母が口にした時、とても驚いたのだ。
動揺すらした。
その自分に、愕然とした。
母のことを、認知症の母のことを、やっぱりもう違うという風に思っている自分がいるのだ。
少しずつ認知症が進んで行く母をみてきた。
過去から今のいろんなことを全部わかっていると思っている。
全部ちゃんと仕舞われているというのかな。
そして、今その瞬間に感じたコト、浮かんだコトが、ときたま上手く言葉になることがあって、それをご褒美のように思っている。
母はある意味、もう過去の後悔や未来への不安にとらわれず、今この瞬間を生きているんやと思っていた。
いや、思おうとしていたんかな。
気休め?美化?自分のため?
母のココロの中は、やっぱり、わかっていなかった。
たとえ表面に現れたのは、言葉にしたその一瞬であっても
たとえ普段は母自身が無自覚であったとしても、いろんな感情がココロの中では渦巻いているのだ。
「さみしい」「シニタイ」という想いが、母の中にあるのだ。
当たり前に。
積み重ねた日々に、今の穏やかな日々に、笑顔に、
いろんなことをわかったような気になっていたと知る。
そんなもんじゃない。
母と過ごす時間を、
母に向き合うコトを、
大切にしたいのに。
なにもわかっていないことを、
思い知るばかり。