熱の効果か
父の一回忌が終わった次の日から、母の具合が悪くなって、
何か原因はわからんまま、さらに風邪もひいて、病院に連れて行ったり・・・と
バタバタしているうちに、私も風邪をひいたようで・・・
なんだかさえない日々を送っていた。
土曜日、「小規模多機能施設からの週末帰宅」で戻ってきた母は、
たまにむせるような咳はするけれど、元気になっていた。
おやつを食べて、トイレに行って、晩ごはんまでは、いつもの「三線LIVE」。
(お泊り分の荷ほどき、洗濯、荷造りに、晩ごはんの用意と、
母から目を離す間はいつも、母の前で三線を弾いてもらっている。)
昔から母は音楽が好きなので、聴いているのかどうかはわからないけれど、
目の前で演奏している彼の方を向いて、じっと椅子に座っているので、安心して用事ができるのだ。(だいたい通常2時間ほど)
いつものように、馴染の曲が次々聞こえてくる・・・
終盤、「安里屋ユンタ」を調子よく弾きだしていると、
突然母が、「オキナワ ○たい・・・」と言った。
(みたいか、行きたいか、「何たい」のかは、聞き取れなかった)
「沖縄」とはっきり言った。台所でもちゃんと聞こえた。
思わず母の側に寄って「オキナワって、わかった?」「一緒に行ったね~」と
嬉しくって、いっぱい話しかけた。母は、「ふんふん」「ふんふん」とだけ言う。
わかったようなわからんようないつものあいまいな「ふんふん」。
でも、あの瞬間は、母の中で、聴こえてくる曲と沖縄とがつながったのだ。
そのことに感動している私の横で、弾き手サンは「お母さん、聴いてくれてたんや~」と、
なんだかずれたところで喜んでいる。
ちゃんと聴いてるやんね~(私もはっきりとは、確信もってなかったけど)
その証拠に、音がかなり外れた時には、「大丈夫?」と言っていた。(←正しい指摘!)
認知症の関わりで、言動に一喜一憂しない・・・と言われることがある。
(病状の進行に関する警告としてであろうと思われる)
けれど、今、母と過ごす中で、たまに訪れるこの一喜は、ホントに奇跡というか、
何かのご褒美のようなのだ。
喜ぶべき時には、めいっぱい喜ぼうと思う。
ココロがしんどくならん程度には、一憂もしっかりする。
母自身は、過去を嘆かず、未来を憂うこともなく、今この瞬間を生きている。
「今」のその瞬間に、たまたまふっとこっちとつながる、そんな奇跡を喜ばないなんて、もったいなさすぎ。
でも、ほんとに一瞬でしかない。
ついつい欲張って、それがわかるなら・・・って、あれこれ聞いたりしたくなるのは、
まだまだこっちが、俗世間の物差しで量ろうとしてしまうから・・・
わかっている。わかっているつもりだけど・・・
次の返事が、あいまいな「ふんふん」でもかまわない。
ご褒美がなくても、全然かまわない。
そう思えるだけの強さ?図太さ?が、この八年の日々の中で、私にもしっかり育ってきています。