車いすで
母は、ずいぶん認知症が進んでいるので、もう意味のある会話はできない。
たまにナイスなつっこみや返答があったりするので、
まだちょっとはわかっているのでは・・・などと、思いたくなることもあるけど、
ほんの“たまたま”なだけなのだ。
なので、そのナイスな返答は、まるでご褒美のように思えるし、
一緒に歌ったり笑ったりできる時間は、本当に宝物になっている。
数年前、まだしゃべっていた頃は、
母自身、いろんな戸惑いや私らに対する不満やらで、いっつも苛立っていたし
こっちも、なんで?なんで??・・・が先にたって、母を受け取ることができなかった。
何度も同じコトを繰り返し言うのを聞くと、「また・・・」と、うんざりした。
それだけ繰り返していた話を、今、こっちがどれだけ覚えているか・・・というと、
ほとんどわからない・・・
今振り返ると、なんてもったいないコトをしたんやろうと思う。
まだ、母とそういう渦中にいた時に、私がコラムで、
「介護を経験してすでに見送っている人が書いたり言ったりしたことは、
美化が入るから、渦中ではあんまり役に立たない・・・」というようなことを書いている。
しかし、まだ、見送ってはいないけれど、
大嵐を過ぎた今、その大嵐に、私自身、すでに美化が入っているなぁ・・・と思う。
あんな風に、大声で言いあうことはもうないから。
こんなことが、延々続くかと思ったら、ホントにやってられなかったのに。
渦中を過ぎて、ようやくわかる。
美化が入るからこそ、その美化を含めて受け取ることに意味がある。
このことを、渦中の人(ちょっと前の私のような)に、どうしたら伝えられるんかな・・・
過ぎてから、失くしてからしか気づけない・・・その悔しさを。
けっして、延々続くことではないことを。
大昔から先人たちが、伝えるために心砕いてきたことなんやな・・・