車いすで
じわじわ来ていたことが、最近はかなり顕著になっている。
母に言葉が通じない。
そのことに気づきかけてからは、
必ず、してほしい動作をこちらがやりながら、言葉をかけるという風にやってきた。
毎日毎日、何度も何度も同じことを繰り返すことで
なんとなく、「流れ」で出来たり、雰囲気で通じていたこともあるし、
しもやけの手当で、父がする“すりすり”や、
一緒に歌ったり、TVをみてしゃべったりすることで、笑顔も笑いもたくさんあって、
このおだやかな時間が続くと、もうしばらくは、もう少しは続くと、思っていた。
母の意思とは全く関係のないところで、思考も動作も止まるのだ。
突然、パタッと、ねじが切れたように、止まるのだ。
こちらの言葉も音も何もかもが遮断されたように、止まる。
トイレを済ませて立ち上がる時に、
食卓の椅子に座る時に
ただぐるぐると部屋を歩き回っている時にも
突然、止まる。
「動こう」という意思は、ある。あるように見える。
というのは、じっと、ほとんどすがりつくようにこっちの顔を見るから。
そして、全然見当ちがいの動きであっても、なんか動こうとするから。
そうやって動こうとすることが、かえって危なくて((予想できない動きになるので)
支える手がいくらあっても足りない・・・・
焦るけど、これからどうなっていくのか、いろいろよぎるけど
母の顔をみて、笑おうと思う。
笑うぞ。(変な顔でもいいやん)
人の、遺伝子の記憶、扁桃体の機能を信じて(“単純”という強み(笑))。
どうやってもどうにもならないことがあるというコト。
それでも、日常を続けていくというコト。
「笑顔の力」を実践するのみ。