孫には負けられない(鍵は目標?)
私たちは、必ず死を迎えます。
死ぬ事がわかっているのに私たちはなぜ生き続けようとするのでしょう。
死ぬ事が怖いと思う人もいます。
生きているうちに楽しまなければという人もいます。
生きる意味を見つけようとする人もいます。
生きる事と死ぬ事は、コインの裏表のように、切り離す事ができないものです。
永遠に生き続けることはできないと考える事もできれば、永遠に生き続けられるという事もできます。
形あるものの形がなくなるという物質的な見方をすれば、肉体が滅ぶため、永遠に生き続けることはできませんが、精神的な存在としてみれば、永遠に生き続ける事も可能だと考える事もできます。
私たちは、その両面を持って、生まれてきた存在だと思います。
人それぞれ見えるものが違うため、何を大事にして生きていくかは様々です。
ただ、誰にでも、何を選択するのか、何でも選択できる可能性を持っている存在だと思います。
当然、すぐに手に入るものから、一生かかっても手に入らないものまで様々ですが、選択権は、自分にあります。
このように考えると、自分が生きていたという証を残して生きたいと考えたくなります。
最近よく考えるのですが、
「私たちは、何らかの役割を果たすために、生を受けたのではないだろうか。」
ということです。
その役割に気づいて人生を送る人もいれば、気づかないで人生を送る人もいます。
気づいて人生を送る人の方が、充実した人生を送れるように思います。
何か壁にぶつかった時、
「これは、何かのサインかもしれない。」
と考え、自分の人生と結びつけ、避ける事なく、立ち向かうことができます。
この場合は、新たな世界を見る事ができ、仮に失敗しても、学びとして受け取るため、可能性を広げる事ができ、充実した生活を送る事ができます。
逆に
「負担が増えるから、避けよう。」
と、壁から逃げ、常に安全な場に留まり続け、世界を狭め続ける事もできます。
この場合は、窮屈なため、トラブルやストレスを抱える事が多くなり、充実感を感じにくく、生活に追われ、充実感を味わう事が難しくなるように思います。
ここでこうやってコラムを書き続ける私には、何かを伝えたがっている私がいるということのようです。