気の緩み
最近、「私は、生かされている。」と感じる事が、増えてきたように思います。
自分の意思というよりも、何か大きな力(自然の力?神様?)が働いていて、その力に日々動かされている感じです。
降りかかる問題は、求めているわけではないのですが、私がその問題を解決するために目の前に現れてくれた感じがします。
どのように対処するのか試されていてる感じです。
介護一つとっても、父の衰えに合わせて、介護をやり切る自分なのか試されている感じがします。
また、地域の問題でも、大きな岐路に立たされていて、今後の活動の新たなうねりを作り出すために今何ができるのか試されている感じがします。
そして、今扱っている個人面談での相談の内容も、今の自分が避けては通れない課題である事を知らせてくれているようにも感じます。
目の前に現れている様々な出来事を感情的にとらえてしまうとストレスが溜まってしまいます。
でも、比較的冷静に捉えているので、ストレスというよりも挑戦する意欲に駆り立てられている感じがします。
何事も自分の捉え方一つで、どのようにでも対処できます。
大きな自然の力が自分のバックについていると思うと、失敗さえも、
「きっとこの失敗は、理解を深めるためには、体験しなければならない事なのだろう。」
と、前向きに捉える事ができます。
不安もありません。ただ受け入れれば、必ず、道が開けてくる感じです。
毎朝、体のトレーニングをしていますが、これが心のトレーニングにもなっている感じがします。
腕立て伏せをします。
限界まで挑戦しますが、その時々の体調によってできる回数は異なります。でも、辛さややり終えた時に感じる達成感などは同じです。
そして、それは、課題を乗り越える時の辛さや達成感と似ています。
この程度の辛さならば乗り越えられると身体が教えてくれています。これも自然からもらうサインのように思えます。
目の前に現れている課題について、十分耐えられる課題だと思えるのも、限界が来れば、身体が教えてくれると思っているからです。
「まだ私にできる。」と思う時には身体も拒否せず、協力してくれる感じがします。
身体は、センサーの役割を果たしてくれている感じがします。
身体も自然の一部です。
大事に丁寧に扱う事で、敏感なセンサーとして働いてくれるのではないかと思います。(暴飲、暴食、過重負担を避けます)
お風呂に入って、身体に感謝を込めながら、綺麗にすることは、ただ身体の汚れを落とす作業ではなく、身体をセンサーとして働かせるための儀式のように思います。
身体が喜ぶ入浴にする事が、センサーへのご褒美になります。
石鹸をつけ、身体を撫でるように、「今日も一日ありがとう。」と声をかけます。ゆっくりお湯に浸かりながら、呼吸を意識し、静かな時間を過ごします。
お湯に浸かって自然の一部になっている穏やかな時間です。
まるでお母さんのお腹の中ですくすく育っていく赤ん坊のようです。