躾は誰のため?
インドでは、人の生き方・在り方を馬車でゆく旅路の例え話があります。
ヨガの勉強をされている方にはお馴染みの話かもしれません。
この馬と馬車のたとえ(比喩)が登場するのは、紀元前4世紀頃成立の『カタ・ウパニシャッド』という聖典だそうです。
その中で、人が解脱に至る道のりを、暴れ馬のように不安定な感覚器官をしっかりと制御し、本当の自分を宿す肉体を馬車として、人生のゴールへ向かって往く旅路に例えています。
解脱までに至らなくても、よりよく生きていく道のりを歩む時、私たちの思考、感情、身体を上手く扱うために役に立つ考え方になります。
この例え話を次のように整理できます。
目指すゴール よりよく生きたい(意思)
手綱を持つ人(御者) 思考
暴れ馬 感情
馬車 身体(肉体)
ここで示した「よりよく生きたい」(意思)が、本当の自分ということになります。
(私の場合)
ここ数日、インフルエンザに感染し、ぐったりとしていたため、横になって休養を取る時間が長くなりました。
病んでいる時の身体は、壊れかけた馬車そのものです。馬車の修理をしている間、馬は暴れています。
休養を取りながら、いろんな感情が湧き上がりました。
「早く楽になりたい。」「ゆっくり寝ていたい。」「あったかい物を食べたい。」「面白い番組を見たい。」「美味しい物が欲しい。」
この時には、全く「よりよく生きたい」という意思はなかったように思いました。
この感情(=馬)に餌をやっている時間にもなっていたようです。
身体が少しずつ回復し、身体の動きが軽くなってくると、
「畑は大丈夫かな。」「できる仕事はないかな。」と、考え始めました。御者が手綱をしめ始めたのです。
それに伴って、感情も湧き上がってきました。
この時の感情は、前者とは異なり、畑の野菜の心配や休養中に支えてくださった方への感謝、生活を始める意欲などでした。
餌を食べ、落ち着き、手綱をしめたために馬が暴れずに動き始めたのです。
このように例え話に当てはめて考えると面白いことに気づきます。
1 感情は、「身体→感情」「意思→思考→感情」の2種類がある
2 身体に集中している時は、意思が働いていない。
このことを日常生活に当てはめて考えてみます。
・感情的になっている時には、身体の反応か、意思の反応かどちらかである。
(感情の出どころはどちらかか探る冷静さが必要)
例えば、
辛い、嫌な感じがした
身体の反応・・・・避けたがる
意思の反応・・・・避けるべきか、避けずに立ち向かうか判断する
楽しい、嬉しい感じがした
身体の反応・・・・続けたがる
意思の反応・・・・続けるべきか、止めるべきか判断する
※美味しいからと言って食べ続けるのをやめられないのは、身体反応から生まれた感情(暴れ馬)に振り回されていることになります。病んでいる身体を癒す程度にとどめておく事ができるのが、手綱をしめた状態
・身体に集中しているため、意思が目に入らない。そのため、身体のそばにいる暴れ馬(感情)が目に入りやすく、その影響を受ける。
そして、感情に合った思考を作り上げる
※「美味しい物が食べられる事は、幸せな証拠だ。」「美味しい物を食べると生きる意欲が湧く。」などと意思とは関係なく、都合のよい理由をつけて食べ続けることになります。
本当の自分(意思)は、目の前にある衣食住に固執することはなく、もっと崇高なものを求めているように思います。
常に意識して生活しているわけではありませんが、無意識的に生きていると常に暴れ馬(感情)が活躍することになります。
本当に自分が求めている事なのか、時々立ち止まって、意思を探ってみることも役に立ちます。
目先の物事に囚われて、本当の自分を見失っている事はないでしょうか。
本当の自分を探すためにも感情の出どころを探る事はとても役立つと思います。
感情が動いた時がチャンスです。