あることが当たり前?
私たちは、いろんな自分を持っています。
場面が変われば、親にも、夫にも、役員にも、地域のおじさんにも、経営者にもなります。
それぞれの立場に相応しい自分を演じようとしています。私は、自分なりに理想を掲げてその役を演じようと努力しています。
ところが、求められる人物になっているかと問われると、自分の掲げた理想とかけ離れている事があります。もしかすると、かけ離れている事が多いかもしれません。
求められている人物になっていると、相手の思いと一致しているため、ラポールが取りやすく、心を開いて関わる事ができます。
逆に求められている人物と異なると、違和感を感じ、心は閉じてしまい、関係を築く事ができません。
親・・・・・甘えたいのに甘えさせてくれない
夫・・・・・気遣ってほしいのに気遣ってくれない
役員・・・・これをしてほしいのにしてくれない
地域・・・・もっと地域のために働いてほしい
経営者・・・もっと利用しやすくしてほしい
理想の人物になろうとする時には、自分の内側を見る事が多くなりますが、求められる人物となると、視点は、内から外に変わります。
相手は私に何を求めているのだろうと、相手を理解することから始まります。
突然孫が、「遊ぼ。」と声をかけてきました。
こちらがしている事への配慮もなく、声をかけてきます。孫の気持ちを考えて、
「仕方がないな。少し付き合うか。」
と、孫の願いを優先し、自分事を後に回すことになります。
ところが、妻から「これやっておいてね。」と頼まれた時は、
「わかった。これが済んでからやるわ。」
と自分事を優先し、妻の願いを後に回す事があります。
この対応の違いは、一体どうして生まれるのかを探ってみると、面白いことに気づきます。
自分事を優先させている時には、相手に甘えさせてもらっている自分があります。
子どもに甘える
妻に甘える
地域の人に甘える
お客様に甘える
身内には甘えることができますが、他人には甘える事ができません。
ここに壁があるように感じています。
自分で勝手に作った壁です。
本当は、他人も甘えさせてくれる存在かもしれません。
殻を作って、自分を守ろうとしているように思います。
その裏には、他人に対して完璧でありたいとの思いが強いように思います。
また、未熟さや至らなさをみせると、自身の存在が危ぶまれると考えている事が根底にあるように思います。
もし、「未熟さや至らなさがあってもいい。」と思っていてくださっているのであれば、きっと伸び伸びと自分の力を発揮しているかもしれません。
そして、未熟さや至らなさを受け入れてもらえる事に感謝の気持ちをもち、相謙虚な気持ちでもっと対応する事ができるように思いました。
相手が完璧を求めていると思っている自分が、この壁を作っているように思います。
相手からよく見られたい
非難されたくない
見栄や自尊心が働いているのかもしれません。