後世に残すもの
自分の事は、自分が一番よく知っていると思っている人はかなり多いのではないでしょうか。私もその一人です。
でも、自分ではなかなか気づけない事を他人だから知っている事も多いように思います。
今自己研鑽のために「ある瞬間を自分の思う方向に操作しようとする時に自分の体に走る緊張感を観察する」に取り組んでいます。
この課題を提示した時に仲間から、今の私にぴったりの課題だと言われましたが、なぜぴったりなのか全くわかりませんでした。
それに気づく機会が現れました。
預かっているお子さんが算数の計算問題に躓き、指導している時の事です。
誤りに気づいてもらおうと丁寧に説明をし始めると、「時間がない。早くして。」と声を上げ、私の話を聞こうとしません。早く答えを教えてほしいと訴えます。
同じミスを繰り返さないためにも、誤った理解を修正し、自分の誤りに気づく必要があります。
そのための丁寧な説明を始めたのです。
ここに「思う方向に操作しようとする私」が現れました。
言葉数が増え、感情が高ぶり、何とかしたい気持ちで一杯でした。
感情が高ぶっている子どもを落ち着かせようと必死になるのですが、泣き声になって「時間がない。」と訴え、そこからなかなか抜け出せません。
あっ、これだ。
仲間と議論している時の自分の姿と同じかも知れないと思いました。
仲間は、この姿を見る機会が多いので、「私に合っている。」との発言したのではないだろうかと思いました。
感情が高ぶっている時には、かなり自己主張が強く、視野が狭くなっています。
何とかしなくてはならないと張り詰めた感覚が身体中に走り、体が熱くなっていました。
手に負えないと諦め、手放した瞬間、スイッチが切り替わりました。
「わかった。自分の思い通りにやってごらん。」と子どもに声をかけました。
式を書き進めている姿を見守りながら、その最中に誤りを指摘し、修正させました。
そして、それまでにも同じミスがあることを指摘し、既に書かれているミスした部分の修正するよう話しました。
一緒に問題を解き始めた頃には元の子どもの姿になりました。
理解するまでの道筋が自分流でなければ受け入れられないのが、私たち一人ひとりなのだと強く感じました。
「この説明を加えれば、理解が進む。」と思っている私の理解の道筋と子どもが理解していく道筋が違っているのです。
私には私の、子どもには子どもの理解の道筋があります。
強引に私の理解の道筋に当てはめさせようした事が、このような事態を引き起こしたと考える事ができます。
緊張感を生み出す裏には、これしかないと視野を狭めて目の前の出来事に集中して高ぶる感情に振り回されている自分です。
自分の理解の道筋で理解させようとする時は、冷静さを欠き、自己中心的になっている自分です。
気づかない自分です。大きな発見をしました。