コロナ禍での習慣
毎朝、父がベットから起きる時に
「(身体が)えらい、えらい。」
と、言います。そして、
「ずーっと、寝とりたい。」
「デイサービス、行きたくない。」
「行かなあかんか?」
と話します。
身体の辛さを言葉や態度で伝えてくれますが、介護する側からすると、この言葉に合わせて、デイサービスサービスに行かず、ベットで
ずーっと横になっていてもらう訳にはいきません。
体力の低下だけでなく、刺激が少なくなり、老いが加速されます。
ですから、少々の辛さを堪えてでも、デイサービスに通ってもらいたいと思い、父に励ましの声をかけます。
まるで、登校をしぶる子どもに対応しているようです。
近年の社会保障制度の充実から、寝たきりになっても仕方がない父が、脳や身体の衰えがあるにも関わらず、多くの方に支えてもらいながら、健康で毎日過ごせる事はとてもありがたい事です。
便利な時代になり、当たり前のように過ごしていますが(遅々たる歩みかもしれませんが)、確実に社会が進歩してきているように思います。
不便や不自由、不足、不安を乗り越えて、築かれたこの仕組みですが、この「不」を体験していないとなかなか感謝の気持ちは、湧き上がらないと思います。
過去を探る事は、この「不」を追体験する事になります。
私たちは、過去を探る事なく今だけを見て生きている事が多いように思います。
この事は、社会保障制度だけでなく、目の前に起きる様々な出来事全てについて同様に考える事ができます。
例
他人の意見・・・・・過去にどのような体験をしてこの意見が生み出されたのだろう
約束やきまり・・・・どんな経緯でこのようなものにしたのだろう
物の姿・・・・・・・どのようにしてこの姿になったのだろう
環境・・・・・・・・どのようにしてこの環境が生まれたのだろう
人・・・・・・・・・この人は、どのような体験をしてきたのだろう
好む好まざるに関わらず、目の前に現れている出来事は、全て過去とのつながりの上に成り立っています。
そして、目の前に現れる出来事は、過去を引きずって現れていると考える事ができます。
その上で、目の前に現れるには、それなりの訳があると考えると、感謝の気持ちが、芽生えてきます。
(試すため、力を発揮するため、意味を知るため 等)
そして、その出来事に立ち向かう事になります。
自分だから、立ち向かう事を認められている
自分だから、立ち向かう意思がもてる
自分だから、立ち向かう能力がすでに与えられている
自分だから、出来事を上手く対応する権利がある
自分だから、対応の成果を味わう事ができる
などと考えると、出来事を避ける事が惜しくなり、精一杯取り組んでみたくなります。
それがどんなに辛いことであっても、乗り越えられるのは、自分だからです。
このように考えると、今までとは異なる対応ができるように思います。
私が、父の介護を淡々とできるのは、このような流れに沿って、対応しているからかもしれません。