コロナウイルス禍で生きるとは、
歳を取ったせいかもしれませんが、わがままで、自分本位で、好きな事をしている子どもを見ると、何となく昔の自分を見ているようで、憎めなくて可愛く思えてなりません。
大人の人を見ても、「そういえば、あんなところは、私にもあるな。」と思う時が時々あります。
そんな人には、どことなく親近感を抱きます。
そして、他人の中に自分を見つける事が多くなると、出来事に対して、他人事とは思えず、自分事のように思うようになります。
課題を抱えて悩みを打ち明けられても、その悩みが自分事のように思え、真剣に考える事になります。
先日も「次年度からもこうする」とやや強引な考えを示された方に、住民の声を聞くとよいと思い、お節介かもしれませんが、アンケートを作成して渡しました。
自分の都合のよい思い込みを理由に方針を決めた事が、私にもあり、今では苦い経験として思い出されます。
同じ失敗をしてもらいたくないと言う気持ちになり、他人事ではありませんでした。
どのように対応されるかわかりませんが、見守り続けたくなります。
「目の前に起きる出来事は、どんな出来事であっても、自分に必要な出来事であり、自分を生かすために出来事となって、今、目の前に現れてくれている」と、考える事が増えてきたからかもしれません。
そのため、出来事に反応するのではなく、一旦その出来事が目の前に現れる理由や意味を考える事が増えています。
「何故、こんな事が起きるのだろう。」
「私にとって、どんな意味があるのだろう。」
そして、「どこに向かわせているのだろう。」
と、考えてしまいます。
見えない何かの力で動かされている感じです。
自分が生かされているだけの理由があるはずです。
そのために出会う出来事ですから、真摯に向き合い、精一杯の力を発揮したくなります。
そして、その姿勢で向き合っていれば、必ず望む方向に進んでいくように感じます。
何かに守られて、安心してその出来事と向き合っている感じです。
「今日は、どんな出来事が現れてくれるのだろう。」
そして、
「その出来事を通して、どのように自分を磨く事ができるだろう。」
と、楽しみです。
もし、望む方向に進んでいなくても、不安は、ありません。
まだ、その方向に進めるだけの自分になっていないと考える事ができるので、何を磨けばよいのかを見つけるだけです。
それも必ず、見えない力のおかげで、必ず気づかせてくれます。
必要ならば、必要な人が現れてくれます。
逃げないで、出来事に真摯に向き合うだけす。
奢る事なく、ただ真摯に出来事に向き合うだけです。
逆に真摯に向き合わないと、見えない力の協力が得られません。