嘘も方便?
お金がないから不幸を感じる人がいますが、お金があっても不幸を感じる人もいます。
この事は、お金のあるなしと、人の幸不幸とは、無関係だという事を表しているように思います。
お金がない人は、
「お金があったら、こんな苦労しなくても済むのに。」
と、思いながらも、努力します。
この「苦労」を乗り越えようと知恵を出し、工夫して生きていると身につけた力や、その時発揮した力は、必ず、その後の人生に役立ちます。
「あの苦労があったから、今の私がある。」と言う言葉は、それをよく表しています。
苦労から逃げず、あきらめることなく、苦労と付き合っているからできることだと思います。
そして、逃げたり、諦めたりせず、挑戦し続ける事ができるのは、将来に対する夢や希望、期待など目標や目的を持ち続けているからだと思います。
言いかえると、「幸せに必ずなる」と思い続けているから「幸せ」になれるのだろと思います。
それならば、何故お金を持っている人が不幸を感じるのでしょう?
私は、その立場ではないので、わからないのですが、この考えに当てはめると、
お金がある人が、「お金では買えない幸せ」がある事に気づいたため、「お金で買えない幸せ」が手に入らない不幸を感じているのではないでしょうか。
そして、このお金ある人も、逃げたり、諦めたりしないで、「幸せに必ずなる」と思い続ける営みを続けることで、きっと幸せになれるのではないでしょうか。
幸せを追い求めて生きる事は、人だからできることです。
幸せの形も十人十色で、様々です。
欲求が満たされた時に幸せを感じると考えるのであれば、マズローの欲求の5段階説が役立ちます。
生理的欲求が満たされた時に幸せを感じる人もいます。
安全欲求が満たされた時に幸せを感じる人もいます。
社会的欲求が満たされた時に幸せを感じる人もいます。
承認欲求が満たされた時に幸せを感じる人もいます。
自己実現欲求が満たされた時に幸せを感じる人もいます。
中には、自己実現欲求を超え、人のために役立った時に幸せを感じる人もいます。
これは、一人の人間の中にあると考える事もできます。
幸せは、一つではなく、その時々の自分の状態によって、求める幸せが違っていると考えた方がよいかもしれません。
自分の状態に関わらず、満たされていた欲求が、あったとすれば、すでに幸せな自分だと考える事ができます。
このように考えると、多くのレベルの欲求を満たして生きている事が、すでに幸せなのかもしれません。
生かされている事に感謝し、今の幸せを発見し、その幸せを運んでくれる対象に感謝することができれば、幸せに包まれている自分を感じる事ができます。
日々の生活の中に、きっと幸せを感じる時間があるはずです。
ただ、その幸せだけでは満足できないために、その幸せから目を背けているために気づかないでいるのかもしれません。
人間の欲にはキリがありません。
どこかで、幸せな自分を認めてあげたいと思います。今不幸を感じていても、その今の状態は、幸せの上に成り立っているからこそ、新た幸せを求めるための不幸なのかもしれません。
幸せの上に成り立っている不幸・・・・欲を捨てれば、幸せに満たされている自分を感じる事ができそうです。